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青森県/十和田湖周辺 [三本木原大地物語]

安政時代開削直後の稲生川用水の様子
 安政時代開削直後の稲生川用水の様子

三本木原台地の命の水 稲生川用水

三本木原台地は青森県十和田市周辺に位置します。この台地は広い荒野に三本の白たもの木しか生えていなかったことから、三本木原と呼ばれるようになったともいわれています。

この一帯は八甲田山や十和田湖カルデラの噴火でできた火山灰の土地であるため、雨水がしみ込み井戸を掘っても水が湧きでてきませんでした。そのため荒野のまま長い間利用されていなかったのです。そんな荒野に勢いよく水が流れるのをみて、村々の人々が歓声をあげて喜んだのは、今から140年前の幕末1859年5月4日のことでした。

この荒れた台地をなんとか田畑にできないものかと考えた人は、南部(盛岡)藩士、新渡戸傳・十次郎の親子でした。十和田湖から流れる奥入瀬川と三本木原台地の高低差は30m余りもあるため、上流から4.1kmのトンネルを掘りぬくなど幹線水路延長約10.3kmに達する難工事でしたが、わずか5年の歳月でみごとに完成させました。その結果、約300haの水田ができました。

また、田畑の開拓だけでなく、約1.3km四方の規模で碁盤の目状に区画が整然とした都市計画も行われ、稲生川用水も農業用水だけではなく、生活用水、防火用水として町中の水路に流れていました。

工事の費用は、16万5千両(今の価値にすると約160億円)投入された作業員は延べ21万531人といわれています。

 

稲生川上水測量図(新渡戸記念館蔵)
稲生川上水測量図(新渡戸記念館蔵) 

 

太素塚に立つ新渡戸傳の像
太素塚に立つ、新渡戸傳の像

新渡戸傳・十次郎親子
新渡戸傳(1793年~1871年) 新渡戸十次郎(1820年~1867年)

新渡戸傳は、60歳の時、三本木原開墾の計画を作り、男長十次郎の二代にわたり、稲生川用水を完成させる。十次郎は、都市計画と同時に防風林の植林や産業開発を行った。

中でも馬市は町の産業として根づき、後に馬産地として有名になった。五千円札の肖像となっている新渡戸稲造は、傳から数えて3代目にあたる。

現在、新渡戸親子は「太素塚」にまつられ、十和田市では通水日を記念して、5月3日から5日までの3日間、満開の桜のもと「太素例祭」が市民の祭りとして盛大に催されている。

 

大志を継いで 国営三本木原開墾事業

明治以降、新渡戸親子ら先駆者の大志は引き継がれ、三本木原開墾株式会社(明治17年創立)などにより農業を中心とした開発が積極的に進められました。

その代表的なものが、水野陳好氏(初代十和田市長)らの努力によって昭和12年(1937年)から昭和41年(1966年)に行われた国営三本木原開墾事業です。

この事業では、かんがいの時期に十和田湖の水位を調節して、自然のダムとして利用し、奥入瀬川から取水するために新たに三本木用水路を開削して大規模な田畑の開拓を行う計画でした。これと同時に奥入瀬川流域の水力発電開発も計画されました。

具体的には、3,376haの水田と5,947haの畑が開拓され、地域経済発展の基礎が築かれました。

現在では稲生川用水、三本木用水の整備を行い、三本木原台地の水を守るため、「稲生川土地改良区」※によって大切に管理されています。

しかしながら、戦争中の物資に乏しい時代に建設された水路はしだいに老朽化するとともに、昭和43年(1968年)十勝沖地震(M7.9)による水路の損壊、傷みが進行しました。

このため、昭和53年(1978年)から始められた国営相坂川左岸農業水利事業によって、老朽化した用水路の改修が進められています。

稲生川用水、三本木用水の水は、広大な三本木原を流れ、昔の荒野の面影を想像することもできない、稔り豊かな田畑を潤し、遠く太平洋に達しています。そして、三本木原開拓の大志は将来に引き継がれ、永遠に子供たちに伝えられていくことでしょう。

※土地改良区とは、土地改良法により設立された農業者の団体。土地改良事業の事業主となるばかりではなく、できあがった施設の管理まで行うことができる。重要な事項は組合総会で決定しなければならない。

現在の十和田市の町並み
現在の十和田市の町並み

 

人力、馬車トロッコを使った水路建設(当時)
人力、馬車トロッコを使った水路建設〈当時〉

三本木原台地の歴史

安政2年(1855) 新渡戸傳ら三本木平開拓の願書提出、新田開発に着手。
安政6年(1859) 5月4日稲生川上水完成、新田300ha
明治 維新 新田荒廃する。
明治17年(1884) 三本木共立開墾会社を設立し、開墾事業、用水事業を進める。後に株式会社となり稲生川用水は太平洋まで約39km完成。
大正10年(1921) 開墾会社解散稲生川普通水利組合結成、後に稲生川土地改良区となる。
昭和12年(1937) 三本木原国営開墾事業開始、開田目標2,500ha。奥入瀬川河川統制計画のもと開墾事業、発電事業を進める。
昭和19年(1944)
国営三本木用水通水。
昭和20年(1945) 太平洋戦争終戦、緊急食糧増産対策。
昭和41年(1966) 国営開墾事業完了水田3,376ha、畑5,974ha、水路総延長71km完成。
昭和43年(1968) 十勝沖地震M7.9。
昭和53年(1978) 国営相坂川左岸農業水利事業始まる。

 

緑したたる稲生川用水(市街地)
緑したたる稲生川用水(市街地)

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