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福島県/郡山市周辺 [安積疏水物語]

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大いなる遺産 安積疏水

明治のはじめ郡山周辺は、水に恵まれず奥州街道のさびしい寒村でした。年間雨量は1,200mmあまり、阿武隈川支流の各河川は流域が小さく、しかも低地を流れているため用水として利用するにはあまりにも小さく、毎年のように干害をうけていました。そのため、3,800haの水田がありながらも、その収穫は半分にも満たない「安積三万石」の産米をみるだけでのところでした。

しかし、今日の郡山市は福島県第一の都市として、人口33万人を数えるほどになっています。今日の郡山発展の礎となったのが、明治15年10月1日に完成した安積疏水です。

当時の福島県の典事(課長職)中條政恒は、明治政府の内務卿大久保利通に安積野の開拓と猪苗代湖の水を引くことを国に強く要望しました。これを受けて、明治新政府は、産興業と士族授産のため大規模な開拓の適地調査を命じ、北は青森県の三本木原から那須野原まで調べ、その結果、安積が最適地であるとの結論を得ました。

その後、オランダ人技師ファン・ドールン等の慎重な調査が行われ、明治12年10月27日に明治政府にとって国営開拓の第1号事業として安積疏水工事が着工され、40万7千円(現在の価値にすると約470億円)の費用と延べ85万人の労働力を費やし、3年の歳月をかけて明治15年10月1日に通水式が挙行されました。安積疏水は安積開拓で拓かれた水田を潤し、地域の農業の発展に大いに貢献しました。やがて、人々は疏水を利用して発電を行い、その電気を利用して製糸工業を興しました。また、疏水の水は、農業が栄え工業が発展した郡山の人達の飲み水ともなりました。

安積疏水は、大いなる遺産として郡山市、須賀川市、長沼町、本宮町、猪苗代町、岩瀬村、大玉村の2市3町2村に住む45万人の生活を支える、貴重な水となっています。

 

イラスト

中條政恒 典事
中條政恒

現在の郡山市開成山公園に大規模な池を築造し、付近の開拓に心血を注いだ。中條なしには安積流水の実現はなかったと言われている。作家宮本百合子の祖父にあたる。

ファン・ドールンオランダ人技師
ファン・ドールン

オランダ人の優秀な技術者で、明治政府に雇われた。明治11年、安積疏水の計画にあたり、猪苗代湖の自然水位を変えず、会津側の人々の水利用に支障なく、安積疏水で疏水できることを学術的計算から実証した。また、その他に宮城県石巻市の野蒜築港などの事業も手がけた。

 

120年の時を経て、そして未来を拓く 安積疏水土地改良区

明治15年に完成した安積疏水は、ただ120年の間当時の姿を保っていたのではありません。今日に至るまで地域の発展を支えるために、守り育てられてきました。

安積疏水は、明治19年福島県に移管され、県は同21年、関係する民間人に引き継ぎ、普通水利組合を経て、現在「安積疏水土地改良区」が管理しています。

安積疏水土地改良区の人々は安積疏水が地域の農業に役立つよう疏水の施設や水を管理しています。大切な安積疏水を見守っているのです。

また、農業用水の維持管理だけではなく、東京電力の沼上、竹ノ内、丸守の3発電用水と郡山市水道用水の維持管理の任にあたっています。

明治15年に完成した当時の安積疏水は、水路延長130km、3,000haの水田を潤すのみでしたが、国民の食糧増産のために昭和16年~昭和41年にかけて実施された新安積開拓、更に、農業の生産性を高めるために昭和45年~昭和57年に実施された国営安積疏水農業水利事業を経て、水路の総延長534km、10,000haの水田を潤す基幹的な土地改良施設になっています。

長い115年もの年月を経て老朽化した施設の更新と水の安定供給を図るため、平成9年より新安積農業水利事業を実施しています。それは、大いなる遺産、安積疏水を21世紀に受け継ぎ、郡山地域の更なる発展に貢献することになるでしょう。

郡山市いこいの場である開成公園の池
郡山市民のいこいの場である開成公園の池、
この水も安積疏水から流れてきている

 

安積疏水十六橋制水門
安積疏水十六橋制水門
昭和初期に改修された安積疏水路
昭和初期に改修された安積疏水路

 

十六橋制水門

猪苗代湖の水は、湖の西側にある会津盆地を通って阿賀野川となり日本海に流れている。安積疏水では奥羽山脈を越えて湖水を東側に流すことから、湖の西側にある戸の口に十六橋制水門を建設し、湖の水位を保ちつつ取水するしくみになっている。

建設にあたっては、全国でも指折りの石組みの名人を招いてつくられた眼鏡橋で、安積疏水の名所となっている。

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