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中国四国農政局

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    3.近世~用水の確保(田布施町)

    近世に入ると、農民たちは、生活を安定させるために、農業生産力を増大させようと努力を始めました。農民たちが日々の生活を送る中で最も必要を感じたのは、稲作に不可欠な「水」でした。

    田布施町での中世末から近世にかけての新田開発は、主に河川に井堰を設けて行なわれました。田布施町域には、井堰を設ける工事が困難な大河川はなく、大規模なものは天正年間までに行なわれました。したがって、江戸時代に入ってからの主な増石は、川除という河川工事によるものが多かったようです。

    貞享4年(1687年)の川除は、以前より田布施川の土手が所々で決壊し、洪水が田布施・波野・麻郷をおそっていたことから行なわれました。中でも波野の地家田、六百石余の土地は、毎年どこかが洪水の被害を受けていました。

    洪水を防ぐ工事は、支配地が御蔵入地の他に、柳沢領、佐世領、大野毛利領などの給領地が複雑に入り組んでいたため、延べ2万6千以上もの人夫を動員し、1ヵ月半を要する大工事となりました。

    また享保5年(1721年)の工事では、大洪水の時に、田布施川が3つに分流するため、川土手の高さを二間半にそろえ、大水が出ても「新川」を流れるようにしました。これは、先述した貞享4年(1687年)の川除を徹底させた側面もありました。その後は、田布施川に土砂が堆積して洪水とならないようにするため、「ねば土」の取り除き作業が行なわれるようになりました。

    このように、田布施・波野・麻郷では、田布施川の水を統御することによって、増石をもたらすようになりました。

    田布施町の河川は、数は多いものの、その規模を見てみると、末流川幅が六間を越えるものは麻郷と下田布施の新川(現田布施川)、その上流にあたる宿井の中島川、上田布施から別府へ流れる山田川、麻郷の平田川のみです。これ以外の72%が末流川幅が一間以下の河川でした。一間は1.818メートルなので、川幅が2メートルに満たない小河川が田布施町域の村々の用水源となっていたことになります。

    末流川幅が一間以下なのに対し、井手は、152堰のうち99堰が一間以上の幅をもっていました。これは、流れてくる小川の水を少しでも広い場所に溜めて、少ない水源を十分に活用しようとした農民たちの考えだと思われます。

    したがって、下田布施や波野のような大規模な井堰による用水が確保できたところでは、長い溝が多く、堤が少ないという特徴を持ちます。逆に用水が確保できない上田布施のような場所では、溝は少なく、用水を補助する堤も小規模となっています。

    また、河川からの用水に苦労したのが、宿井・川西にあった熊毛宰判下の村落でした。地形的にも中島川や郷皮からの引き水を行なうのが難しく、農業経営のための用水は堤池にたよることが多かったようです。

    お問合せ先

    南周防農地整備事業所

    〒742-1502 山口県熊毛郡田布施町大字波野585番1
    電話:0820-51-1007  FAX:0820-52-1330