1. 鳥取県 米村所平(よねむらしょへい)
【生没年:1642年 (寛永19)~1727年 (享保12)】
米村所平は、江戸中期の鳥取藩士で、経済や民政に明るく、藩に大きな貢献をなしたとして、異例の出世をした人物です。
かつて弓ヶ浜(ゆみがはま)半島は、八杉の迫門(やすぎのせと)、安来の大切戸と呼ばれる沼 沢地帯が存在しましたが、江戸時代初めに日野川によって運ばれた流砂が日本海からの風と波によって堆砂し、現在の姿になったとされています。
弓ヶ浜半島は、陸地となり農業部落が次第に増加し、農業が盛んになっても、灌漑用水が皆無に近いため、一度旱魃(かんばつ)になると悲惨な状況 に陥っていました。そこで、所平は、弓ヶ浜半島の農民を救うには、灌漑用水の便を図ることが重要であると考え、鳥取藩に弓ヶ浜半島への水路開削を提案します。
1700年に工事は着手され、取水口は、水量、標高、土質などの観点から車尾村大字観音寺戸上に決められました。
1701年11月、予定の両三柳村まで用水路が竣工(しゅんこう)すると、水路が通った地域は見る間に水田化されていき、1725年、他の村から水路延長の要請が出され、第2期工事が始まります。この工事によって、大崎村(弓ヶ浜半島の真ん中あたり)まで、水路が延長されます。さらに、1727年には下大崎灘まで延長され、農業はますます発展していきました。
その後、1759年には先端の境港(さかいみなと)まで続く工事が約12キロメートルの延長であったにもかかわらず、わずか半年という驚異的なスピードで完成し 、用水路は米村の一字をとって「米川(よねがわ)」と命名されました。
こうして延長約20キロメートルの米川は、1700年から60年の歳月を経て鳥取県西部最大の農業用水路へと発展しました。弓ヶ浜半島は、水田のみならず、綿の一大産地として成長し、綿は藩を代表する特産物となります。
下表は弓ヶ浜半島の村の戸数を示す資料ですが、米川の開削で、弓ヶ浜がいかに大きく発展したかをまざまざと示しています。
【写真】米川
写真提供:鳥取県西部総合事務所
【表】江戸時代における弓ヶ浜半島の戸数の変化
村名 |
1734年の戸数 |
1834年の戸数 |
---|---|---|
三柳村 |
63 |
162 |
河崎村 |
40 |
190 |
夜見村 |
19 |
207 |
和田村 |
35 |
278 |
大崎村 |
39 |
255 |
合計 |
196 |
1,092 |
出典:『とっとり土地改良史』(水土里ネットとっとり 平成16年3月)
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