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中国四国農政局

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    3. 岡山県 津田永忠(つだながただ)

    【生没年:1640年(寛永17)~1707年(宝永4)】

    津田永忠は、江戸時代の前期の岡山藩士で、池田光政(いけだみつまさ)・綱政(つなまさ)の二代の藩主に仕え、この地で土木事業、藩政改革、財政再建と、数々の偉業を成し遂げた人物です。

    国宝となっている閑谷(しずたに)学校の建設と経営、天下の名園と名高い後楽園の造営、百間川(ひゃっけんがわ)の開削(かいさく)、倉田新田の開発と倉安川(くらやすがわ)の開削、幸島(こうじま)新田の開発と坂根(さかね)用水の開削、沖(おき)新田の開発・・・・・・彼の業績は、数え上げればきりがありません。

    中でも、とりわけ注目すべきは、百間川の開削と沖新田の開発です。当時、岡山城下を流れる旭川(あさひがわ)は、流れが浅く、洪水の被害が絶えませんでした。そこで、永忠は、城の上流地点で土手の一部を低くして(荒手堤)、東の中川までつなぎ、洪水時には旭川の水がそこで分流されるようにしました。

    さらに、後には、この百間川を排水路として延長し、その河口に南北4キロメートル、東西5キロメートルという大干拓を成し遂げます。工事はわずか6ヶ月という驚異的な速さで完成し、造成された1,900ヘクタールにも及ぶ干拓地は沖新田と呼ばれました。また、百間川河口部には、高度な排水機構である「唐樋(からひ)」が考案、設置されましたが、この唐樋は、昭和42年に新河口水門ができるまで実に263年間の長きにわたり、岡山を高潮の被害から守り続けました。

    永忠により開発された新田は、全て合わせると2,800ヘクタールを超え、藩の財政を大いに助けました。

    【写真】津田永忠の陶像
    【写真】咽声神社
    出典:農林水産省土地改良偉人伝

    【写真】百間川と沖新田

    【写真】咽声神社

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