出水平野地区
![]() |
![]() |
||
![]() |
![]() |
出水平野地区の概要
|
出水平野は鹿児島県北西部八代湾に面する約35km2の地域です。この地域の水田の主な水源である河川は、米ノ津川を除いて水量に乏しく、極めて不安定な状況にありました。また、地域の中央を占める台地上の畑は、かんがい施設が皆無であるため、耐かん性の強いサツマイモなどしか作ることができませんでした。 この打開策として、米ノ津川の支流高川にダムを築造し、出水市の約1,700haの水田の用水補給と、約1,500haの畑地かんがいを目的とした国営かんがい排水事業が実施されました。 十分な農業用水が確保された現在では、水稲作をはじめとして、露地・施設野菜、果樹、花・花木の栽培が定着するとともに、観光農園などの多様な農業経営も営まれ、鹿児島県下でも有数の生産地となりました。 |
出水平野地区位置図 高川ダム
|
(クリックすると拡大します。) |
優良農家インタビュー~水がもたらす新しい経営~
消費者ニーズに応える観光農園へ
山門富太さん(出水市)が父親の後を受けついだ当時は、「出水地域の気候風土はブドウ栽培には適していない。」と専門家から言われたそうです。昭和30年代、山門さん以外にブドウ栽培を行っていた農家は2~3戸程度でした。そのような中で、試行錯誤を繰り返しながら栽培技術を確立し、それに伴ってブドウ栽培農家が増えてきたそうです。 昭和38年に巨峰を導入し、その後、品種構成のほとんどを巨峰に変えていくとともに、昭和48年から、市場出荷から直接消費者と向きあえる観光農園への移行を図ってきました。 現在、本園(ビニールハウス)分園(雨除けハウス)の合計160aの経営を、奥さんとUターンした息子さんのほか、パート7~8名で行っています。 |
山門さん |
露地栽培から施設栽培に変更
ブドウの露地栽培は、生育期間の温度や降水量によって、裂果などの生理障害や病害虫が発生しやすい欠点があり、栽培管理に苦労していました。 露地栽培から施設栽培に変えたことで、天候に左右されない栽培管理ができるようになり、今まで露地では作りにくかった消費者が好む巨峰もうまく栽培できるようになりました。 さらに、病害虫が発生しにくいため減農薬栽培ができること、ビニールハウスと雨除けハウスの組み合わせで収穫期間を延ばせることなどから、消費者が安心して食べられるブドウを長期間にわたって提供できるようになりました。 このように、様々な利点を持つ施設栽培に変更することができたのは、必要な時に必要なだけ散水できる「かんがい施設」が整備されたからです。 |
将来について
「今後も巨峰を中心に、消費者の嗜好にあった品種構成を考え、固定客を大切にしながら、安心して食べられるブドウの栽培を続けていきたい。」と語ってくれました。 |
農業用水がもたらす営農変化
地域中央を占める大野原台地は腐食質に富んだ土壌ですが、水がないためサツマイモ以外はほとんど栽培されていませんでした。 しかし、かんがい施設が完備され、必要な時に水が使えるようになってからは、ミカン、ソラマメ、メロン、スイカ、お茶などの栽培が盛んになり、鹿児島県の主要産地へと発展しています。 |
ミカン |
干ばつに強い作物の作付が減少
近年、作付面積全体としては減少気味でありますが、その中でサツマイモや麦類が大きく減少してきた代わりに、水を必要とする野菜、果樹、花木等の作付が中心となっています。
|
スプリンクラーによる散水 |
|
育つ農業後継者
かんがい施設が完備され、多様な農業が展開されるようになったことにより農家戸数に占める農業後継者の割合は県平均を上回るようになりました。 |
|
メロン栽培の拡大
水が引かれてから、メロン栽培が盛んになり、特に施設栽培が拡大しています。現在では、出水地域の特産の一つとなっています。 |
メロン |
|
高い生産性と農業所得を維持
10a当たりの作物生産性が高く維持されることによって、生産農業所得も安定します。県平均と比較しても高い水準を維持しています。かんがい施設の整備によって、適期植付、栽培管理が適正に行われるようになったためと考えられます。 |
|
肥沃な台地に水を求めた先人達
峻烈を極めた五万石溝の工事
国営出水平野地区の事業が行われた大野原台地は腐食質に富んだ豊かな台地ですが、川がなく、長い間自然の山林のままでした。このため、台地に水を引くことは長年の悲願でした。 今から260年前、藩主島津吉貴の命により、米ノ津川の水を遠く大川内下平野から取り入れて山地を迂回し、広大な大野原台地に引き入れる五万石溝(延長20km)の工事が行われました。この工事は、山腹の岩盤をくり抜く隧道23ヶ所、川渡し2ヶ所、川底をくぐる底水道2ヶ所が含まれ、また、水路はほとんど15,000分の1の緩勾配(通常の水路勾配の2分の1)と当時の技術では大変難しい工事でした。工事は20数年の歳月と当時のお金で17万5千両、現在の金額で百億とも云われ、北薩5万石の総力を結集した一大事業でした。 当然、関係農家の夫役は峻烈を極め、幾多の悲劇が今に語り継がれています。 |
五万石溝の図 |
工事の難所に水神碑
工事は鉱山技術を駆使した難工事でした。しかし、なぜか工事の記録は残っておらず、難工事の場所に簡単な碑文が書かれた水神碑が建っているだけです。 なかでも、折尾野井堰の近くにみられる「衆力奏功」の四文字だけを記した水神碑は、当時の工事関係者の慎ましい奥ゆかしさが感じられます。 五万石溝は、地頭の手柄でも、郡の役人の功でもなく、夫役として動員された農民たち、すなわち一般大衆の努力と忍耐によって出来上がったものなのです。
|
水天神碑 衆力奏功の碑 |
シヲ女にまつわる物語
上流から数えて23番目の最後の隧道(貫ヌキと呼ばれている)は長さも大きさも一番大きく「シヲ女貴」と呼ばれています。 「出水風土誌」に、「シヲ女という名前の美人の奥さんが、この難工事の期間ずっと、薩摩藩主から任命された検者につかえご機嫌をとっていた。」と記されています。 シヲ女は、難工事を成し遂げるため甘んじて人身御供となりました。難工事に使役されて苦労する人々の苦しみが、少しでも軽くなるようにと願ったのではないでしょうか。 シヲ女の墓の記録はありませんが、人々は十数年も費やして完成した貫にシヲ女の名を残しました。 |
シヲ女貫の工事用の横穴 |
国営事業の完成で役目を終える
長い年月と莫大な経費を費やした五万石溝は、その後殆ど補修、改良を加えることもなかったため、その機能を十分に発揮することはありませんでした。農民の夫役を当然と考えていた地主の郷士たちは、補修改良のために自らの資本を投下することを好まなかったのです。 他にも、五万石溝の上流側で用水を取りすぎるなど、取水に何のルールも申し合わせもないため、下流域側の農業は甚だ不安定になっていました。 五万石溝は、昭和24年度から県営事業として改修がなされていましたが抜本的な解決にいたらず、近代工法を駆使した国営かんがい事業の完成によって、長い役目を終えました。 |
二連隧道 出水市立歴史資料館 展示資料解説資料等より |
お問合せ先
南部九州土地改良調査管理事務所
〒885-0093 宮崎県都城市志比田町4778-1
TEL:0986-23-1293 FAX:0986-27-1281