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中国四国農政局

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    那賀川農地防災事業所

    3.近世(安土桃山時代~江戸時代)

    1583年、豊臣秀吉から阿波(あわ)一国を与えられた蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が入国します。「この頃の阿波は『南海治乱記』によると、天正(てんしょう)6年(1578年)以来、兵乱・凶事・地震・洪水等の災害が打ち続き、この世の終わりかと思うほどであったと伝えている」(『阿南(あなん)市史』)。

    どこの地域でもそうですが、近世になると戦乱も治まり、開発のエリアは急速に拡大します。川沿いの荒地、山間のわずかな平地、三角州先端の湿地帯までもが開発され、耕地や集落が造られました。阿南市では、江戸期を通じて最も新田増加率の高い地域は中林村、橘浦(たちばなうら)、七見(ななみ)村、領家村など海岸部の集落となっています。さらに江戸後期になると那賀川(なかがわ)と桑野川(くわのがわ)に挟まれた河口の広大な三角州も干拓されています(辰巳(たつみ)新田:阿南市辰巳町)。耕地の拡大に伴って人口も増加します。17世紀初めには1,200~1,300万人だったわが国の人口は、18世紀初めには3,000万人に達しています。したがって、当然のことながら、洪水、渇水、冷害、地震、高潮といった災害も増えていきます。特に那賀川の上流部は何度も日最大降雨量を更新したという日本有数の多雨地帯であり、那賀川の氾濫による洪水の記録はおびただしい数にのぼります。これらはいずれも自然現象ですが、人口が増えたことによって顕在化された災害と言えるでしょう。新田開発が増えるほど洪水・渇水の被害も増す。開発と災害はつい近年に至るまで紙の裏表の関係でした。

    それはともかく、阿波藩は、吉野川流域では「藍(あい)」を、那賀川流域では「米」を作って藩の基礎を固めていく方針をとります。吉野川は洪水制御が難しく、また利水もままならなかったので稲作より藍作が適していました。いわば、投機(とうき)的な商品経済への投資です。一方、稲作による安定的収入は那賀川平野に請け負わせたということでしょう。この平野における米の生産量は阿波全体の3分の1を占めていたといいます。

    那賀川平野では藩政期、ほぼ現在の用水体系が確立されています。記録の上でたどれる最も古い用水は、平野南岸上流の一帯を潤す「一の堰」。詳細は不明ですが、1603年の検地に同用水の記録があるので成立はそれ以前と思われます。下流に位置する「桑野川一の堰」も築造は慶長(けいちょう)年間(1596年~1614年)とあります。徳島藩家老が自分の領地11カ村を潤すために造りましたが、その後、1638年に富岡城(とみおかじょう) の石垣を使ってより大規模な堰を造り、灌漑(かんがい)面積を広げています。『阿波史』によれば、「南方有名の大堰なり」と記されています。

    「竹原堰(たけわらぜき)」は1674頃の築造と言われています。別名「ガマン堰」。ここから岡川(おかがわ)が分流し、桑野川に合流していました。明治の初期、この分岐点は那賀川の洪水をわざと溢れされる乗越堤(のりこしてい)が設置されたために岡川沿いの住民は洪水の害にあいながらも、何度も補修作業に駆り出され「ガマン、ガマン」と励ましあったことから付いた名前だといいます。

    那賀川北岸では1674年、羽ノ浦(はのうら)(現阿南市)、立江(たつえ)(小松島(こまつしま)市)、坂野(さかの)(小松島市)、今津(いまづ)・平島(阿南市)の5カ村、およそ1,300ヘクタールを潤す大用水「大井出堰(おおいでぜき)」が佐藤家によって開削(かいさく)されたとあります。佐藤家は中世から続く土豪、あるいは荘園主であったらしく北岸一帯に広大な領地を持っていた家系です。その子孫である佐藤良左衛門(さとうりょうざえもん)は、「下広瀬堰(しもひろせぜき)」の開削に際して今も語り継がれる悲話を残しています。

    その他、江戸初期に築かれたという「上広瀬堰(かみひろせぜき)」は藩の費用で2つに分離し(1836年)、北岸上流部を潤しています。これらはいずれも藩や豪農が手がけた大規模な用水で、この他にも駄良蔵(だらぞう)用水、牛蔵(うしぞう)用水など農民の手になる小さな用水がたくさんあります。特に北岸では「車」あるいは「車田(くるまだ)」という名のつく用水が多く、これは畑を水田に転換するため水車や踏み車を利用して田に水を入れる用水のことです。

    また、上流の谷間に開けた平地でも楠根(くすね)用水、十八女(さかり)用水といった岩盤にトンネルを掘りぬいた用水路が造られています。

    そして、これらの用水と平行して造られたのが数々の堤防です。中には庄屋の吉田宅兵衛(よしだたくべえ)による万代堤(ばんだいづつみ)といった豪農の手になる大堤防もあり、崩されては修復し、修復しては崩されるということの繰り返し、農民の過酷さは筆舌(ひつぜつ)に尽くし難いものであったといいます(「万代堤と大岩」参照)。

    この那賀川の両岸には岩脇(いわわき)の水神社野神(のがみ)神社といった14社もの水神社がありますが、いずれも神仏に祈るしかなかった農民の苦しい思いが託されたものでしょう。

    その祈りも空しく、17~18世紀にかけて気温が低下し、享保(きょうほう)、天明(てんめい)、天保(てんぽう)といった歴史上有名な凶作、飢饉(ききん)が続発します。ワタの入った着物を着て、焚(た)き火しながら田植えをしたと記録にあります。飢饉の年は木の実や草の根まで奪い合って食べ、道脇の青草までなくなっていたとあります。

    この平野では、藩政期260年を通して、風水害(台風や大雨の被害)のあった年が100回、干ばつは23回、病害虫の被害は13回、飢饉は12回を数えています。

    【図】那賀川の昔の用水図

    那賀川の有無歌詞の用水図

     

    お問合せ先

    那賀川農地防災事業所
    〒774-0013
    徳島県阿南市日開野町西居内456
    TEL:0884-23-3833