4. 高知県 野中兼山(のなかけんざん)【生没年:年(元和元)~1663年(寛文3)】 野中兼山は、土佐(とさ)藩2代目藩主山内義忠に27年間家老として仕え、その間に補佐役・後見役である小倉少助、三省親子とともに産業の振興、大規模な新田の開発、築港等の功績を残しました。 新田開発は高知平野、高知県西部の中村市・宿毛(すくも)市周辺、県北部の本山町周辺を中心に約3千町歩(1町歩は1ヘクタール)を開発し、約3万石(1石は約180リットル)の増収があったといわれています。 この開発に伴い物部川(ものべがわ)の山田堰、野市上(のいちかみ)井堰、下井堰や仁淀川(によどがわ)の八田堰、鎌田堰、四万十川(しまんとがわ)支流後川の麻生(あそう)堰、岩田堰等が築かれるとともに用水路が整備され、これら用水路は新たな水上交通路としての役割も果たしました。 しかしながら、これらの開発事業は過重な賦役(ぶえき)を課すこととなり、領民の怨嗟(えんさ)の声を生みました。また兼山は激しい気性のため敵も多く、このことが原因でついに失脚するに至り、そのわずか3ヶ月後に病死しています。 兼山の死後、野中家は取り潰しとなり、その妻子は宿毛に流されその男子が死去するまで40年間幽閉され、最後の生き残りである娘の婉のみが許され、晩年を高知で過ごしたといわれています。 兼山によって築かれた堰の多くも老朽化が進み、現在では新たな堰にその役目を引き継いでいますが、旧山田堰の右岸には取水口が復元され公園として整備され、公園内には兼山を祀る春野神社が分祀されています(元社は春野町新川の兼山により造られた新川落しの近くに祀られています)。 写真1 山田堰跡 |
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