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東北農政局

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秋田県/横手市増田町他 [平鹿堰物語]

明治29年大倉(真入取入口)の工事落成の景
明治29年大倉(真入取入口)の工事落成の景

奈良時代から連綿と続く営み 平鹿堰

秋田県南東部にある横手盆地を流れる雄物川支川成瀬川一帯に広がる平鹿平野を潤す平鹿堰の歴史は、今より約1,240年前の奈良時代の天平年間以前にさかのぼることができます。

そのころ、今の増田町真人山の下に取水口を作り、わずかな農地を耕したのが平鹿堰のはじまりと伝えられています。

さらに、慶長年間佐竹藩領となってから開拓が進むと共に水不足が生じ水利紛争がおき、藩は水路の管理を藩の直轄とし堰親郷、堰守を置いて村々の肝煎※にその任をあたらせ水利の便を図るようになりました。

さて、成瀬川をせき止めて取水することを「関根留」と呼んでいました。つまり堰を根止めすることです。そのひとつに「柴押」と呼ばれる方法があり、これは江戸時代の嘉永年間から昭和初期にコンクリート製の「平鹿堰堤」ができるまで行われたようでした。柴押とは、木製の柵をつくり、これに柴を立てかけてむしろを張り、流されないように土俵で根固めをする方法です。

しかし、この方法では、洪水にはひとたまりもなく押し流され、かんがい期間中には柴押のつくり直しが数回にもおよぶことがあったようです。洪水で堰が流され、雨が上がれば干ばつ、水不足で田が干上がります。そのため、堰を管理していた平鹿堰水利組合は急場に間に合うようにと、明治43年に堰をつくる木材と柴を採取するための山林40aを買い求めたほどでした。

このような困難を乗り越え、昭和21年から始まった国営雄物川筋農業水利事業により築造された成瀬頭首工により安定した取水が可能となり、米どころ秋田の誇る大穀倉地帯になったのです。

 

肝煎:村の世話役のこと。いまで言う町内会長のようなもの。

現在の成瀬頭首工 


現在の成瀬頭首工

水不足を乗りこえて 国営雄物川筋農業水利事業

水不足は、平鹿地方の大昔からの宿命的な現実でした。現存する関係書類には「水争いのための流血の惨事…」という記述が例外なくみられます。その中でも大規模なものとして語り伝えられているのは、大正12年頃の「合川原戦争」と呼ばれるものです。

合川原は、平鹿堰用水路の上流から4番目の分水工で現在の秋田県立増田高校の南東部にある水田にかんがいする水路の取り入れ口でした。

その頃、このあたりに荒地がかなりあったので、地主は160haの水田を開墾しました。ところが、かんがいが困難な水田が40haもあったので、なんとか水をかけようとして、あたりの人々は、用水路を土俵で堰き止めて合川原分水へ引水しようとしました。しかし、用水路の下流側の人々はたまったものではありません。

そこで、下流側の人々はトラック3台に分乗して押しかけて合川原堰の近くに陣取り昼夜を問わず相手の行動を見張っていました。夜になってこっそり合川原の者が水を引きに行くと、見張りに見つかって争いが始まったともいわれています。そんな状態が長く続いたのですが、ようやく調停されてこの争いは終わることになりました。

このような水争いの中には、裁判で争われるような事件もあったとも言われます。

平鹿平野
 平鹿平野

 

さて、昭和21年から昭和51年にかけての国営雄物川筋農業水利事業により、このような水争いが解消されるようになりました。

しかし、この事業で造成された施設も30年~40年を経過したものもあり、管理に費用がかかるようになってきています。また、トラクターやコンバインといった農業用機械の普及にともなって、水田が乾田化※され今まで以上に水が必要とされるようになったため、新たな農業用水の確保が必要となっているのです。

平鹿平野が、秋田の、いや日本の米どころとして未来にも引き継がれるように、今、新たな国営農業水利事業の調査が行われています。

 

乾田化:
湿田は、田面水の地下浸透がほとんどなく土壌は膨軟で、酸素供給が極端に少ないため水稲の収量は劣る。また、湿地のため機械化作業も困難となる。このため、暗渠排水等により土壌中の水分を排出し、温暖な表面水とともに酸素供給することにより増収につながり機械化作業を可能とし農業生産性の向上を図るものである。なお、乾田化することにより浸透量は湿田時より多くなるため、より多くのかんがい用水量が必要となる。

お問合せ先

農村振興部設計課

ダイヤルイン:022-221-6277