山形県/酒田市周辺 [庄内平野物語]
芭蕉が見た新田開発 大町溝と北楯大堰
江戸時代の俳人、松尾芭蕉が「五月雨を集めて早し最上川」と詠んだ最上川に落ちる「白糸の滝」は、芭蕉が訪れた1689年の夏と変わらぬ風景を今もとどめています。今、最上川を下り「白糸の滝」を過ぎると、300年前にはなかった構造物が目に入ります。「草薙頭首工」と「最上川取水口」です。
この2つの施設で取り入れられた水は、最上川の左右岸に広がる庄内平野に動脈のように張り巡らされた水路を通じて、約13,000haの水田の隅々にまで配られています。
この巨大な水路網が、庄内平野の稲作を支え、この地域をわが国でも有数の穀倉地帯としているのです。しかし、この水路が長い歴史と人々の努力の積み重ねにより完成されたことを知る人は少ないでしょう。
最上川の河口周辺に広がる庄内平野の開墾は、712年に出羽の国が置かれて以降本格化しました。柵戸と呼ばれる開拓者が入植し開墾が進められました。当時は、比較的用水の確保しやすい沢や沼の周辺などが水田として拓かれ、その後農業土木技術の進歩とともに、水路を築き、その周辺の農地が拓かれてきました。
この地域で記録に残る最も古い水路は、1384年に築かれた郷野目堰です。この水路は、現在も郷野目幹線用水路として水路網の一部として利用されています。
その後、水田の開発は更に大規模なものとなってきます。今日も、広大な水路ネットワークの一部となる「大町溝」と「北楯大堰」による開発が知られています。
最上川の右岸を流れる「大町溝」は、最上川の支流である相沢川に水源を求める水路で、1591年上杉家の家臣、甘糟備後守景継により開かれた水路です。また、左岸を流れる「北楯大堰」は、同じく最上川の支流の立谷沢川から取水する水路で、1612年、最上家の家臣、北楯大学助利長によって開かれました。
この北楯大堰の開削により、新たに5,000haの水田が開発され、88の新しい村が出来たといわれます。芭蕉が庄内の地を訪れたころは、北楯大堰の開発による水田開発が盛んに行われた時期にあたり、おそらく芭蕉もこの新田開発を目にしたことでしょう。
鳥海山麓に広がる庄内平野
最上川周辺部が最後に拓かれた水田地帯である
![]() 現在の北楯大堰 |
![]() 昭和43年に取水を開始した草薙頭首工 |
最上川疏水の実現 国営最上川下流農業水利事業
その後、水田の拡大とともに、用水不足が深刻となり水争いが絶えぬ時代を迎えることになります。やがて、目の前を滔々と流れる最上川の水をなんとか利用できないかと夢みて行動を起こす人々が現れました。芭蕉がこの地を訪れてから約160年後のことです。
大沼新吉は右岸地区の人で、今の平田町あたりの大庄屋を務めていた人でした。大沼新吉は、1848年に最上川右岸の上郷地点からの取水を計画しましたが、水路が通る松山藩の反対にあい、計画は断念したといわれます。
また、左岸地区の佐々木彦作は、今の余目町あたりの大きな農家の人で、1853年、後に吉田堰として実現する水路の開発を企画しました。最上川左岸の清川地点を取水点と定め、工事に着手しましたが、最上川の洪水に阻まれ、工事は完成することなく終わりました。二人の遺志が受け継がれ最上川からの取水が実現するのは、明治時代になるまで待たなければなりませんでした。
1910年には、佐々木彦作の計画した新堰、吉田堰が完成します。また、右岸では、電動ポンプによる取水が1915年に始まり、庄内平野第1号の遊摺部ポンプ場が作られました。これらの施設により水不足は解消され、最上川周辺に残っていた畑や荒れ地が水田として拓かれるようになったのです。
しかし、ここにあらたな問題が起こりました。最上川の河床が徐々に低下をはじめ各施設での取水量が減少していきました。また、明治時代の「乾田馬耕」※農法の普及により水田の用水量が増加しました。このため、ため池の築造や最上川からの安定した取水へ切り替えることになったのです。最上川からの取水の安定化を図るため、取水地点を更に上流側に変更することが計画され、現在の「草薙頭首工」と「最上川取水口」が国営最上川下流右岸農業水利事業等により建設されました。昭和40年前後に完成したこれらの施設により、庄内平野を覆う水路網が完成し、1300年におよぶ水を求めた歴史は、その第一段階を終えたのでした。しかし、この巨大な水路網は今新たな課題に直面しています。それは水路をつなぐ取水口や水路が老朽化し、用水の供給が止まるかもしれないという不安を抱えているのです。
今、この先人達の築きあげたかんがい施設を後世に引き継ぐための新たな仕事が始まりました。平成5年より国営最上川下流農業水利事業に着手し、老朽化した幹線水路や昭和23年に作られた北楯頭首工の改修工事が進められています。水路網は、それに関わる人々の熱意により、年々姿を変え、次の世代へ受け継がれていきます。芭蕉は「奥の細道」の中で「月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人也…」と記していますが、最上川から取水され、庄内平野を潤す農業用水は、百代の過客、永遠に旅を続ける旅人といえるのかも知れません。
乾田馬耕:明治時代の中頃までの稲作は、水田に一年中水を張ったままの湿田で行われていた。これに対し、乾田は周辺の排水を良くして、稲作が終わると水を落とし田面を乾燥させるもの。乾田での稲作は、肥料分が吸収されやすくなる効果があり、米の増収をもたらす。一方、耕耘作業は大変な労力を要することになり、それまでの人力耕起から馬などに頼った耕起への移行が不可欠となる。
このように、水田を乾田化し、耕耘に畜力を利用する農法を乾田馬耕といい、湿田での米の収量は、150~180kg10a程度で、現在の約4分の1という状況であった。
滔々とながれる最上川
お問合せ先
農村振興部設計課
ダイヤルイン:022-221-6277