地域の歴史 |
地域の歴史
古くからの潤いの地
開田に尽くした二人の八左衛門 江戸時代に入ると藩政により開田・新田政策が推し進められました。そのために清水(せいすい)・溜池(ためいけ)が活用されましたが、それだけでは拡がる田をまかなうことが困難となり、和賀川から水を引いて新田開発に取り組む人々が出現しました。なかでも、松岡八左衛門は、明暦2年(1656年)、それまでは不可能とされていた水位の低い和賀川から和賀川左岸台地(和賀川の流域から下流に向かって左側の台地)に引水することを計画し、3,800石の新田開発に成功しました。 続いて、和賀川左岸台地にさらに大規模な新田開発を行ったのが奥寺八左衛門です。後に「奥寺新田」と呼ばれるこの開発は、南部藩最大の規模(7,600石)であり、トンネルによって和賀川の上流から引水したこと、尻平川(しったいがわ)の水位をせき上げて用水路を通したことなど、当時としては最新技術を駆使したものでした。 注1)石(こく)は当時1年間に1人が食べる米の量です。面積にすると1石は約0.1㏊です。二人の八左衛門により開田で、約1万1千人もの人々を養うことができました。 不作、凶作、年貢との戦い 水の確保に成功し、次々と新田開発が行われても、農民の生活は常に苦しいものでした。藩政中期は現在に比べ、米の品種も稲作技術も貧弱なため、東北特有の冷涼な気象の影響を受けやすかったのです。南部藩は江戸時代の256年間に大小合わせて92回の不作・凶作に見舞われ、そのうち減収50%以上の凶作は4年に1度、餓死者を出す程の凶作は16年に1度の割合で発生しました。 稲作を強制され、不作・凶作に苦しんでいた農民は、年貢の厳しい取り立てにより、新田開発反対の陳情や一揆の行動に出ざるを得ませんでした。 新たな開発の波大正8年、岩手県によって三堰(上堰、下堰、猿田堰)の水利調査が行われ、「和賀川の水量は豊富なので、三堰の幹線水路の改修を行えば旧田の水利を完全にするばかりでなく、水田開発も可能・・・。」というものでした。これが翌大正9年の「和賀郡中央耕地整理組合」の結成の起因となり、昭和2年から13年まで続く幹線水路の大改修、そして1,200haの開田事業につながりました。この開発事業は250年前の「奥寺新田」以来の開発となりました。 本地区の高位部は、昭和38年から昭和45年度にかけて実施された「国営和賀中部開拓建設事業」によって開田されました。 その後、これらの施設が老朽化したため、用排水施設の合理化を行うことを目的に昭和43年~54年度に実施された国営和賀農業水利事業と、併せて実施された県営かんがい排水事業、県営ほ場整備事業によって現在の農業生産基盤に整備されました。 先人たちのたゆまぬ努力の結果、近代な農業が全国に先駆けて行われる県内でも有数の水田地帯となっています。
農業を取り巻く情勢の変化本地区の農業水利施設は、事業完了後約40年が経過し、老朽化及び寒冷な気象条件による施設の性能が低下し、農業用水の安定供給に支障を来すとともに、施設の維持管理に多大な費用と労力を投じなければならない状況となっています。 また、本地域の農業経営には、さらなる規模の拡大と生産費の削減が必要な状況となっています。このため、水田の生産を支える農業水利施設には、農家からさらなる農業用水の効率的な配水と農業水利施設に係る維持管理費の軽減が求められている状況です。 このため、農業用水の安定供給とより効率的な水利用が可能な施設とするため、老朽化した施設の改修と上堰と下堰の高低差を活用し維持管理の軽減を図るため、平成25年度に国営かんがい排水事業「和賀中部地区」が着工となりました。
〈主な引用・参考文献〉 「北上の歴史」北上市(昭和62年) 「北上地方の水田開発史」(前編・後編)北上市(平成15年・平成17年) 「和賀中央」東北農政局和賀中央農業水利事業所(昭和55年) |
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