1. 北総台地の開拓 【事業に至る経緯】
明治の開拓
現在では、千葉県有数の農業地帯となっている北総台地ですが、水に恵まれない台地では農地の開発が難しく、中世まではほとんど手つかずの状態でした。戦乱も治まり、全国的に新田開発が盛んに行われた江戸時代、この台地にもようやく幕府主導で開発の手が伸ばされます。しかし、農地となったのは、ごく一部だったようで、台地のほとんどは江戸時代に設置された「牧(まき)」、つまり馬を放し飼いにする牧場として使われていました。
本格的な開墾が行われるのは、明治に入り、職を失った武士のための士族授産と、食料増産のための緊急開拓が始まってからのことです。しかし、台地上には水が無く、また風をさえぎるような木々も無く、何よりそれまで手付かずだった土は固く、農作業に慣れない士族たちが開墾するには、あまりに過酷な条件がそろっていました。開墾当初は開拓者の離散・逃亡が後を絶たなかったといわれています。
しかし、明治30年、現在の八街市(やちまたし)に総武鉄道が開通したことで、北総台地には各地から新たな開拓者が集まり始めます。この中には、豊富な経験を持つ農民たちが数多く含まれていました。以後、北総台地の開墾は急速に進み、広大な畑地に様々な作物が植えられるようになっていきます。
開墾当初の農業
開墾当初、畑には開拓者自身の食料として、麦やそばなどが植えられました。麦やそばは、干ばつに強く、やせた土地でも育つため、水も無い開拓地には最適でした。同じように、アワやキビなども干ばつに強いという理由で植えられました。
いずれの作物も、開墾したばかりの肥料もない畑では、それほど収量が上がらなかったようですが、麦は、大正から昭和にかけても主要な作物として栽培が続けられています。
また、当初、台地上には防風林が無く、吹き付ける強風とその風で飛ばされる土ぼこりに、開拓者は悩まされました。開拓者たちは、防風林の役割も兼ねて、畑の周囲に茶を植えるようになります。以後、茶の生産は盛んになり、一時は海外へと輸出されたほど成長しましたが、明治の中頃から大正にかけて、価格の下落が続き低迷していきます。
昭和初期の営農状況
(写真提供:八街市・川嶋亥良氏)
落花生とすいか
明治の終わりごろから、現在の八街市では、落花生の生産が始まりました。落花生も元々は干ばつに強い作物として導入されたようです。以後、八街の落花生は、千葉県落花生企業組合によって普及が図られたこともあり、大正時代には特産品となり「八街の落花生か、落花生の八街か」といわれるほど有名になりました。
富里市では、昭和の初め頃からすいか栽培が始まっています。他の作物に不向きだった土地を利用したのが始まりともいわれ、比較的温暖な気候も適していたようです。富里のすいかは、昭和11年、皇室に献上したことで、全国的にも有名になりました。
この他、開墾当初から作付けされていた里芋や大豆、サツマイモなどは、昭和に入っても主要作物となっていたようです。北総台地では、厳しい土地条件に合わせた作物の選択と栽培の工夫が重ねられ、着実にその成果が現われていました。
落花生畑(写真提供:八街市)すいか
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