さらに詳しく下総国と大和朝廷
弥生時代に農業の技術が伝わると、人々は、それまでの狩猟・採集の不安定な生活から、集団を作り、定住して農地を耕す安定した生活を行うようになります。作物の生産が増え、集団をまとめるリーダーたちが大きな権力を持つようになると、今度は他の集団と争うようになり、これが繰り返され、より大きな集団(クニ)が形成されることになります。4世紀頃、このような大きな集団(クニ)の中で最も勢力を強め、西日本を中心に強大な権力を誇ったのが、いわゆる大和朝廷でした。
大和朝廷と地方との関わりは、前方後円墳の存在である程度、推測することができるといわれていますが、房総半島には100m以上の前方後円墳が14基、小規模のものも含めれば数多くの前方後円墳が存在しています。しかし、その多くは、上総国(かずさのくに)の太平洋岸と東京湾岸で見つかったもの。下総国(しもうさのくに)ではほとんど見つかっていません。
大和朝廷は、稲作を広め、年貢を得るために、その支配下を広めていったと考えられますが、稲作には、当然のことながら、水が必要となります。水の無い台地が広がる下総の地は、稲作の適地が少ないため、大和朝廷も支配するまでに至らなかったのでしょう。
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