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関東農政局

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2. 「牧」の起源と荘園の拡大【「農」と歴史】

「牧」の起源

   さて、農耕が始まった北総台地ですが、開発の対象は、まだ谷底の低地に限られていました。台地上には、谷津田の近くに集落が点在している以外、見渡す限りの荒野が広がっていたものと思われます。この荒野が利用され始めるのは、奈良時代から平安時代にかけてのことですが、それは農地の開発ではありませんでした。

   当時の関東地方は、時の朝廷が東北地方へと支配を広げるための前線基地として位置づけられていました。朝廷の狙いは、年貢徴収の範囲を拡大し、その勢力をさらに強めること。そしてもう一つ、東北地方から馬を獲得する狙いがあったといわれています。国家としての体制が整いつつあった当時、朝廷にとっては、地方との連絡手段として、また反乱への備えとして、十分な馬を確保しておく必要があったのでしょう。

   獲得した馬は、朝廷の経営する「(まき)」つまり牧場で育てられました。『延喜式』(10世紀頃の史料)には、下総国(しもうさのくに)にもこの牧があったことが記されています。農地の開発が難しかった台地上は、牧場にする以外、使い道がなかったのかもしれません。 

 

荘園の拡大


平安時代末期の荘園

   平安時代の中期から後半は、全国で「荘園」とよばれる私有地が広がっていく時代です。それまでは、公地公民制のもと全ての土地が天皇のものとされ、農民は貸し出された土地を開墾するだけでしたが、奈良時代の半ばから新たに開墾した土地の私有が認められるようになり、貴族や寺社、有力な地方豪族などが大規模な開墾を進めるようになります。武士の起源は、この荘園を守るために武装した領主たちだったともいわれています。

   北総台地は、平安時代の末期に起きた平忠常(たいらのただつね)の乱以後、その子孫たちが戦(いくさ)で荒れた土地を開墾し、荘園としていきます。当事業地区では、印東荘(いんとうのしょう)、白井荘(しらいのしょう)といった荘園が開発されました。古文書に残る地名から、印東荘は富里市の集落を、白井荘は八街市(やちまたし)の集落をそれぞれ含んでいたことが分かっていますが、これらの集落は、高崎川や鹿島川の周辺に位置していたようです。

   隣の上総国(かずさのくに)では、牧の一部を開墾した荘園もあり、北総台地でも同じような例はあったのかもしれませんが、この時代の開墾も、やはり谷津田が中心だったものと思われます。

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