このページの本文へ移動

関東農政局

メニュー

4. 明治の混乱と牧の開拓【「農」と歴史】

開拓が始まる北総台地

八街市の七十二町歩開墾成功碑(写真提供:八街市)

   明治のはじめ、江戸をはじめとする関東の諸国には、幕末からの混乱で職を失った武士や路頭に迷う庶民があふれ、政府にとってその対策が緊急の課題となっていました。当初、政府はこうした人々に対し、それぞれが望む職を与えようとしましたが、不景気による物価の不安定さと天候不順による食糧不足も重なったため、新たな農地を開拓することで彼らの救済と食糧増産を図ることに決定します。開拓の対象となったのが北総台地の(まき)でした。

   日本では、江戸時代の新田開発を経て、条件の良い土地がほぼ開墾し尽されています。北総台地でも、谷の低地は谷津田として、台地の一部は畑地としてすでに開墾されていました。残った広大な牧は必然的に条件の悪い土地であったことになります。しかも開拓者のほとんどは、農具を持ったこともない人々・・・。

   ともかく開拓は、実際に事業を進める開墾会社が設立され、明治2年、北総台地の西側、小金牧の初富地区(鎌ヶ谷市)から始まりました。東側の佐倉牧もすぐに続き、現在の八街市(やちまたし)では八街地区の開拓が、富里市では七栄(ななえ)地区と十倉(とくら)地区の開拓が始まっています。

 

困難を極める開墾



開拓当時(写真提供:八街市・川嶋亥良氏)

   広大な牧の開拓は困難を極めました。一度もクワが入ったことの無い台地は固く、作業に慣れない開拓者たちは炎天下の労働に苦しみました。一面に草原が広がり、さえぎるものが無い台地では、強風が吹き付けると土ぼこりが舞い上がります。開拓が始まって間もない明治3年には、7月と9月に台風が襲い、植えたばかりのそばや麦が全滅しました。宿舎が火災に見舞われた地区もありました。

   厳しい状況に、開拓者の疲弊は進みます。離散・逃亡が相次ぎました。さらに、思うように開拓が進まず、莫大な負債を抱えた開墾会社は、開拓が始まって3年で解散に追い込まれます。開墾地は残った開拓者と解散した会社員で分けられましたが、開拓者への配分はわずかなものでした。開拓者の離散・逃亡は止まらず、何とか留まった人々も、自分の開墾地だけでは生活ができず、小作人として他の土地を耕して生計を立てる他なかったといわれています。

 

地道な開墾と転機

総武鉄道(写真提供:八街市)

   開拓者が次々に北総台地から去っていくなか、見捨てられた開墾地の多くは、旧開墾会社の社員や周辺の農村に住む地主たちの手に渡っていきました。彼らはこの地の開墾をあきらめず、新たな開拓者を雇い、また周辺の農村に住む次男、三男が独立し希望すれば土地を貸し出しました。もちろん、わずかに残った初期の開拓者の中にも、地道な開墾を続けた人々がいたようです。こうした努力により開墾は徐々に進んでいきました。<。

   明治30年、現在の八街市に総武鉄道が開通します。鉄道の開通は、この地方の開拓にとって大きな転機となりました。つまり開拓地の将来に期待を抱き、各地から新たな開拓者が集まり始めたのです。埼玉や山梨からは、数多くの農民が移住してきました。彼らは豊富な経験を活かし、それまでの開拓者と比べてはるかに効率的に開墾を進めていきます。古い開拓者たちも彼らに習い開墾に励みました。開墾は急速に進み、以後、開拓地は農産物の一大生産地へと成長していくことになります。  

さらに詳しく

お問合せ先

農村振興部設計課
ダイヤルイン:048-740-0541

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。

Get Adobe Reader