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関東農政局

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2. 地域の水利資産【水系の歴史と「農」の文化】

1.水系の歴史2.地域の水利資産

現在、日本を流れる農業用の水路は、約40万km、地球10周分ともいわれています。数百年も昔に造られ、形を変えながらも、その役割を果たし続けている水路も少なくありません。このような水路たちは、もはや地域の文化遺産とも呼べるのではないでしょうか。このコーナーでは、農業用水路をはじめとする管内の水利施設について一部紹介します。

那須疏水(なすそすい)(栃木県那須塩原市他)

那須野ヶ原は、一級河川である北側の那珂川と南川の箒川に挟まれ、中央部には伏流河川である一級河川熊川と蛇尾川都が流れる面積約40000haの広大な扇状地で、地質は堆積した砂礫と火山灰のローム層からなっています。かつては、原野に覆われ表流水はなく地下水も深かったため、かんがい用水はおろか飲用水も不足している状態でした。この不毛の地帯を潤すため、那須疏水の開削が始まったのは1885年(明治18年)の頃です。
明治政府の殖産興業政策により、当時の県令や大農場経営を目指した那須開墾社などの地元有力者により、政府の直轄工事として、約5ヶ月という短期間に幹線水路約16kmの工事が完成しました。その翌年、1886年には水門や分水路が建設され、4つの分水路約59kmも開通しました。
その後、水田開発は徐々に進みましたが、地質の問題から思う上に水田面積は増えませんでした。開削後約80年あまりが経過し、1967年に国営那須野原開拓建設事業が着工し、那須野ヶ原総合開発が実現しました。その一環として、那須疏水幹線水路及び分水路の改修と合わせて、那須疏水の取水口として西岩崎頭首工が建設され、現在に至っています。

那須疏水は平成29年度に世界かんがい施設遺産に認定されました。詳しくは下記リンクをご参照ください。

世界かんがい施設遺産の概要
那須疏水の概要

天狗岩用水(てんぐいわようすい)(群馬県前橋市総社町)

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの翌年、総社藩主となった秋元長朝は、かんがい用の水が得られれば、水不足とたび重なる戦いで荒れ果てた領地を実り豊かな土地にできると考え、総社藩の上流の白井藩に水の取り入れ口を作る計画を立てました。
 知行高が6千石の長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業でした。長朝は領民に協力してもらうために、3年間年貢を取り立てないことにして、慶長7年(1602年)の春に用水工事に取りかかりました。
工事は最初のうちは順調に進みましたが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、工事を中断することもありました。
長朝や工事関係者、領民たちは困り果てるばかりで思いあまった長朝は、領内の総社神社にこもって願をかけました。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々に言いました。
「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」
人々は半信半疑でしたが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。この話が、天狗が現れて大きな岩を取り除いたといわれている「天狗来助」の伝説です。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。
総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠を建ててまつることにしました。これが「羽階権現」です。今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。
長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、3年の年月をかけて慶長9年(1604年)にようやく完成しました。

印旛沼(いんばぬま)(千葉県成田市ほか)

 詳細はこちらをご参照ください。

その他

利根川水系土地改良調査管理事務所管内には、多数の用水が疏水百選に選定されております。
詳細はこちらをご参照ください。

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