
1. 近代までの開発経緯 【事業に至る経緯】
開拓維新記(印旛沼二期農業水利事業所制作)(PDF:4,642KB)
和 暦 | 西 暦 | 内容 |
承応3年 | 1654年 | 徳川幕府は、江戸を水害から守るとともに新田開発や舟運などに利用するため、文禄3年(1594)の「会の川」の締切りにより利根川の付替工事を開始しました。 |
承応3年 | 1654年 | 関東郡代の伊奈氏のもと、元和7年(1621)からは三度にわたって赤堀川(備前堀)を開削し、東に流すことにより、江戸湾(現在の東京湾)に注いでいた利根川の流れを銚子付近の太平洋へ変える「利根川東遷」を行いました。 この利根川の付替工事によって、利根川で洪水が発生したら、その水は全て印旛沼に流れ込むようになりました。そのためそれ以降印旛沼周辺の地域は水害の歴史を繰り返すことになります。 また、利根川上流から印旛沼へ運ばれる土砂量が増え、次第に湖沼化が進み現在のW字型の系となっていきます。 |
享保9年 | 1724年 | 下総国郡平戸村の農民である染谷源右衛門等は、幕府の許可を得て、新田開発のため平戸地点と検見川の間(16.9km,698万m3)の開削工事に着手しましたが、資金不足のため挫折しました。 |
天明6年 | 1786年 | 老中田沼意次は、印旛開疎のため平戸地点と検見川の間の堀割りを行いました。(天明の堀割工事)しかし同年6~7月に発生した利根川の大洪水により工事現場が破壊されてしまいました。その後老中の罷免もあり、ついに事業は放棄されました。 |
天保11年 | 1840年 | 老中水野忠邦は、開国に伴う水運整備としての堀工事(平戸地点と検見川の間:約20kmの開削)を天保14年に着手しました。計画の7~8割を完成させましたが、またもや老中罷免により中止となりました。この工事は印旛疎水路の礎となったもので、現在の新川、花見川、弁天池等はこの工事の名残です。 |
江戸時代には平戸~検見川で三度も開削工事が計画されましたが、いずれも失敗に終わりました。
明治31年 | 1898年 | 千葉県知事の阿部浩は、県営事業(国庫補助)にて疎水路掘削(63万m3,沼埋立 24万坪)の計画を策定しました。しかし工費が膨大なため結局着工されませんでした。 |
明治44年 | 1911年 | 明治43年に発生した大洪水をきっかけに、印旛手賀両沼の農民が「至誠会」を組織し、外資導入計画(仏国公共事業会社)による事業実施を政府に陳情しました。 |
大正8年 | 1919年 | 政府は、「中央開墾株式会社」を設立し、印旛沼北部約1000haの開墾埋立工事に着手しましたが、財界変動により大正14年にその1割を完成させたところで中止となりました。 |
大正9年 | 1920年 | 農商務省は、印旛手賀両沼の土地利用計画を樹立しました。(印旛疎水路開削8~27m,毎秒4.3m3の水を東京湾に流下,沼の開田 3374ha,土地改良 686.9ha,海面干拓 704ha) |
大正11年 | 1922年 | 長門川逆水門が完成しました。 |
昭和2年 | 1927年 | 農林省は、長門逆水門が完成されたことを踏まえ、印旛手賀両沼の大規模開拓計画を樹立しました。(印旛疎水路:水路幅 20~34m 107m3/s,開田 2,276ha,改良 903ha,海面干拓 535ha) |
昭和18年 | 1943年 | 印旛手賀両沼沿岸の農民は、昭和10年、13年、16年の大洪水により甚大な被害を被ったことから疎水路開削を求め、嘆願書を東条陸軍大臣に提出しました。農商務大臣内田信也は願いを聞き入れ、県とも協力し、技術者を派遣し、学者の意見を集めて事業実施を決定することを約束しました。 |
昭和21年 | 1946年 | 農林省は、国営印旛沼手賀沼干拓事業に着手しました。これは終戦後の食糧対策と海外からの引き揚げ者の就労対策として国家的な施策として行われました。これによって湖周辺農民の悲願であった花見川、新川筋の水路開削工事が干拓工事の着工により開始されました。 |
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