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近畿農政局

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加古川流域の農業

02農業

1.古代の「農」

条里制の分布

東播地方の弥生遺跡は、多くが瀬戸内海沿岸で見つかっています。加古川や明石川の下流域、いわゆる低湿地にあたる場所で原始的な稲作が行なわれていたものと思われます。
その後、川をさかのぼるようにして開墾が進められました。飛鳥時代の607年には、聖徳太子によって加古川の下流部に堰が設けられたといいます。

7世紀の半ばには、公知公民制がしかれ、条里制による土地区画が始まります。加古川はもちろん、東条川、志染川などの支流や明石川でも川沿いの平野に条里の跡がみられます。

一方、印南野台地では条里を示す痕跡が全くみられません。条里制は、すぐには開墾できないような荒地や林地も区画されたといわれますが、水がかりの悪い東播の台地では、行なわれなかったようです。

「野は嵯峨野、さらなり。印南野。交野。狛野……」(枕草子)

これは、平安時代、清少納言が風情ある野原を称えた歌といわれていますが、「野」は、「人の手が入っていない土地」という意味が含まれています。
ただ、7世紀から8世紀にかけて、印南野台地には、「岡大池」と「入ヵ池」が築かれたという記録が残っています。ため池による水田開発が、すでにこの頃から始まっていたのでしょう。

条里制の分布

2.中世の「農」

公地公民制は、8世紀の後半になると有名無実と化します。農地の私有化が認められ、有力な豪族や貴族、寺社は積極的に開墾を押し進めていきました。いわゆる荘園時代がはじまります。東播では、東大寺や住吉社、播磨清水寺など、有力な寺社が中心となって荘園の開発が進められました。

東大寺の「大部荘」は、平安以前、加古川の中流部で開墾が始められた大規模な荘園として知られています。条里制と同様、東播の荘園は、多くが川沿いの平野に位置していました。比較的、水利の難しい場所にも進出しているようで、鎌倉時代には、加古川の中流部に堰が設置されていたという記録もあります。
また、この地方は平氏の本拠地であり、平清盛の大荘園も多くありました。大規模な堰の設置は、高度な技術と莫大な費用が必要になるので、有力な中央貴族や寺社しかできなかったものと思われます。

一方、印南野台地をはじめとする東播の台地では、目立った開墾がなされたという記録はなく、荘園もほとんどみられません。中世の有力者にとっても台地の開発は難しかったようです。

3.近世の「農」

東播の平野は広大ですが台地が多く、開発可能な土地は中世までに大部分が拓かれました。したがって、新田開発が奨励された江戸時代では、ほとんど手付かずにあった台地が開墾の対象となります。戦国時代に発展した城造りや鉱山採掘などの技術が、開発に応用されたことも大きかったのでしょう。
印南野台地では、唯一の用水源となる、ため池が盛んに造られます。開墾が進み水の需要が高まると、周囲の川から台地への導水も始まりました。1680年に造られた大溝用水は、比較的台地の高いところで水を引き入れることに成功しています。

川の水は、すでに開墾されていた平野でも利用されているため、台地に水を引けるのは、秋と冬のみという厳しい制約がありました。引いてきた水は、田植の時期まで蓄えておかなければならないため、ため池はさらに増えていきました。
印南野台地では、中世末から江戸中期にかけて、畑が約10倍に増えているのに対して、水田はわずか1.5倍ほどしか増えていません(下表参照)。ため池による新田開発も、水の絶対量が少ないため限界に達していたことを物語っています。

 

中世末(1590年頃)

近世中期(1737~1852年)

水田

水田

197.7町

69.5町

309.6町

673.1町

印南野台地に位置する稲美町の耕地面積(稲美町史より)

 

畑の作物は、比較的乾燥に強い綿が主力となります。綿栽培は、この地を治めた姫路藩が奨励した重要な商品作物でした。18世紀の中頃には「姫路木綿」や「玉川さらし」といったブランドができるほど盛んになっていきました。

 


 

ページ上部イメージ写真(左側):「大中遺跡 竪穴式住居」(写真提供:神戸観光壁紙写真集HP)
ページ上部イメージ写真(背景):「加古川の空撮写真」(写真提供:小野市立河合小学校)