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近畿農政局

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加古川流域の歴史

03-1歴史

ページ上部イメージ写真(右側):「平清盛像」(写真提供:六波羅蜜寺)

1.高地性集落

弥生時代の遺跡の多くは低地の湿地帯や扇状地の上部で発見されます。当時は水路の技術が未熟だったために、湿地帯に稲を植えたり、扇状地の水の引きやすいところを選んだりして水田や集落が形成されました。この時代は戦いも多かったようで、多くは周囲に堀をめぐらした環濠集落となっています。

ところが、弥生中期後半になると瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて高地性集落が出現します。六甲山の南で発見された保久良神社遺跡や伯母山遺跡、明石川支流の青谷遺跡や頭高山遺跡、加古川中流域の金つるべ城遺跡、作用川流域の横坂丘陵遺跡など兵庫県下ほぼ全域にわたって分布しています。
高地性集落とは、弥生時代の普通の耕作地からみて遙かに高い場所(50~金つるべ城遺跡300m)に営まれている集落のことであり、竪穴式住居、屋外炉、倉庫、廃棄場、祭祀場、墓なども整備されており、定住型の集落であることが分かっています。

その性格をめぐって現在も様々な議論がなされていますが、これらの高地性集落は、大阪湾から瀬戸内海沿岸までの範囲にほぼ限定されており、多くは平地や海を展望できる位置にあることから軍事的要塞のようなものであったという見方が有力です。実際に、集落の遺跡からは焼け土なども発見され、ノロシの跡ではないかと推測されています。
これらの集落は、大和政権が誕生する以前のものであり、九州勢力と大和勢力の戦いや、中国の史書に登場する「倭国大乱」との関連性が重視されています。
播磨の国は畿内の隣にあり、近世まで軍事的に重要な位置を占めていました。

 

 

 

「金つるべ城遺跡」見晴らしがいい
(写真提供:小野市)

2.平清盛の巨大荘園

都との関係の深かったこの地域は、荘園時代になると、貴族や寺院系の荘園が山間の谷間の平野などで開発されましたが、いずれも領地が小さいことから強力な在地領主は存在せず、中央支配の強い地域となっていたようです。

しかし、源平時代になると播磨・摂津一帯は平清盛の本拠地となります。清盛は太政大臣辞任に際しては印南野に大巧田(勲功のあった人に与えられた田。大巧田は永世私有が認められた)を得ていましたし、付近に多数の荘園を開発したり、播磨・淡路を平家一門の知行地にしました。1180年には、福原(神戸市)への遷都も計画しています(半年ほどで断念)。平家の巨大な荘園“五箇荘(ごかのしょう)”は加古川宿に中心をおき、東は明石西郊、西は加古川を越えて西にまたがる荘園でした。

当時までの日本は西国が中心であり、海路・陸路とも交通の要衝にあった播磨国は、古くから国司の位としては最高位にあり、特に宗(中国)との貿易に力を注いだ清盛がこの地に本拠を置いたのは慧眼といってもいいのではないでしょうか。

しかし、「おごる平家も久しからず」。平家一門は、一ノ谷の合戦(1184年)や壇ノ浦の戦い(1185年)で破れ、滅びます。平家の滅亡とともにこの地は鎌倉幕府のものとなりますが、幕府系の地頭と旧来の荘園主であった朝廷系の荘園との争いが多くなります。さらに海運など経済の先進地であったこの地は、商業で富を蓄えた、いわゆる「悪党」たちが蜂起するところとなり、中でも赤松円心は南北朝の戦い(この地では、楠木正成の「湊川の戦い」が有名)において足利幕府方につき、後に播磨の守護となって戦国大名としてのし上ることになります。
この地は、田畑からの富で繁栄を築いた他の大名と異なり、商業、とりわけ中国との貿易などで国際的な港湾としての位置を占めていました。


03歴史

3.池田輝政の姫路城

戦国時代末期、この地は後の豊臣秀吉によって平定され、毛利攻めの本拠地になります。秀吉の天下統一の後には兵庫県のほとんど全域が秀吉一門の領地となりますが、江戸時代に入ると関ケ原の戦いの戦功により池田輝政が播磨52万石を与えられます。兄弟や次男、三男に与えられた領地を合わせると100万石近くになったことから「姫路宰相百万石」と称されたりもしました。その百万石の総力を結集して、1607年に築城されたのが国宝であり、日本で初めて世界遺産に選ばれた姫路城です。

4.分散領地と姫路藩

しかし、その後、池田家は岡山と鳥取に転封され、この播磨国は13の小規模な藩や幕府領、旗本領などに分割されてしまいます。この結果、姫路藩15万石、明石、龍野、赤穂の各藩が3~5万石、その他は城もない非領国支配地となってしまいます。
その姫路藩を見ても、池田家の次は、本多家3代、奥平家2代、越前松平家2代、榊原家3代、越前松平家1代、本多家2代、榊原家4代、越前松平家2代、酒井家9代と目まぐるしく領主が変わっています。いずれも徳川家の親藩、譜代の名門が領していますが、播磨は軍事的に重要な位置を占めていたため幼君が出れば転出するという不文律があったようです。

しかし、たかだか15万石程度で52万石の姫路城を支えるのは大変な出費が伴い、譜代の名門として幕政への参与も出費がかさみ、姫路藩の財政は誰が代わっても厳しかったようです。
これは領民に高い年貢として跳ね返ります。それでなくとも水不足に苦しんでいた地域であり、やがてこの不満は、1749年、西日本最大といわれる姫路藩一揆となって爆発します。暴風雨による凶作に加え,藩主交代の動揺に乗じ,年貢減免と大庄屋の非政反対をかかげて1万数千人が蜂起したとあります。

播磨の国は、幕府がこうした分散領地を目論んだがために、近世、他国で見られるような大規模水路による水田開発が進まなかったともいえるのではないでしょうか。余談になりますが、岡山藩の藩祖・池田光政は干拓による新田開発や農政改革で手腕を発揮した名君としてあまねく知られています。光政は姫路城を築いた池田輝政の孫。もし、池田家の転封がなく、光政がこの地を治めていたら・・・。
いずれにせよ、古代から交通や軍事、あるいは貿易の要衝として歴史的役割を背負わざるを得なかったことが、こうした「農」の矛盾となって噴出してきたものと思えます。

 


 

03-3歴史

ページ上部イメージ写真(中央):「布」(写真提供:和歌山県情報館HP)
ページ上部イメージ写真(左側):「藩札」(写真提供・所蔵者:東京大学経済学部図書館)

5.名家老・河合寸翁(かわいすんおう)

 その姫路藩一揆を経て入封した酒井家の代になるとようやく頻繁であった転封が収まり、領民は安定を取り戻します。しかし、藩財政は依然として厳しく、19世紀の初頭には、藩の借金は73万両という莫大な額にのぼったといいます。この窮地を救ったのが、姫路藩きっての名家老といわれる河合寸翁でした。

河合寸翁は質素倹約令を出すとともに、領内の産業育成を図り、大胆な手法で流通改革まで行なっています。
とりわけ力を入れたのが、藩の名産品である「姫路木綿」の増産と販売でした。

寸翁神社と河合寸翁の銅像(姫路城内)卸問屋を通さず、江戸にて直接販売するという現代の「流通革命」ともいうべき手法で莫大な利益を挙げるにいたり、ついに藩の借金を完済することに成功しました。
寸翁は、同様の方法で皮革、竜山石、塩、鉄製品なども藩の専売特産品にするとともに、小麦粉、菜種油、砂糖など諸国の物産を城下に集積して商業、物流を盛んにしました。

こうした経済の近代的センスは、寸翁ひとりのものではなく、古代からこの地が交通の要衝であり、清盛などの宗貿易に見られるように、瀬戸内海を通した交易や商業の歴史的集積が土壌となったものとも思われます。
いずれにせよこの平野は、水の便に恵まれないがゆえに穀倉地帯にはほど遠く、商品作物としての「農」に活路を見出すより他なかったものと思われます。河合寸翁は、そうした地、そうした時代に神が気まぐれに与えたひとりの天才だったのかも知れません。

 

 

寸翁神社と河合寸翁の銅像(姫路城内)
(写真提供:日本のお城・世界のお城HP)