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東北農政局

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地域の歴史

八郎潟干拓の成りたち

   干拓前の八郎潟は、当時、日本で琵琶湖に次いで二番目に大きな湖であり、船越水道で日本海とつながっていた汽水湖で、最深部でも水深4~5mと非常に浅く、湖底は平坦で、地元では"潟"と呼ばれていました。

   八郎潟の開発計画は、安政年間(1854年~1860年)の渡部斧松による八郎潟疏水計画以来、太平洋戦争直後まで幾度も立案されましたが、財政、その他の事情により、いずれも実現しませんでした。

  しかし、戦後の食糧不足等を解消するため、昭和27年、農林省が食糧増産5カ年計画を策定したのと歩調を合わせ、昭和27年7月に東北農地事務局八郎潟干拓調査事務所が秋田市に設置され、現地での調査・調整等を進めるとともに、オランダの対外援助機構(NEDECO)の技術協力等を得て昭和31年度に事業計画が完成し、昭和32年度に国の直轄干拓事業として着工する運びとなりました。

  その後、八郎潟干拓建設事務所及びその傘下に北部、東部、南部の3つの干拓建設事業所が設置されると、干拓堤防を始めとして防潮水門、南北両排水機場等の基幹施設等の建設、船越水道の開削、周辺干拓地等の整備が行われ、昭和41年の中央干拓地の全面干陸をもって、基幹工事が概成するに至りました。
 
   一方、中央干拓地では、昭和39年10月に新村「大潟村」が誕生し、その社会基盤の整備と中央干拓地内の農地・農業用施設等の整備を一体的に実施するため、昭和40年度に「八郎潟新農村建設事業団」が設立され、大潟村の農業基盤整備、農家住宅、村役場、学校、上下水道及び農業用施設の建設、その他の事業が進められることとなりました。 

  また、中央干拓地内の農地及び施設の整備とあわせて、昭和41年から入植者の募集が開始され、応募者の書類審査、筆記・面接試験が行われ、入植が決定した者は、1年間の入植訓練を経て入植し営農を開始しました。その後、入植者の募集は昭和49年まで5次にわたって行われ、入植者数は580戸、農地配分面積は8,860ha(1戸あたり15ha)となりました。

  このほか、八郎潟周辺市町村の農漁業家への増反分として、中央干拓地2,001ha(2,048戸)、周辺干拓地1,136ha(2,373戸)が配分されました。

  こうして、昭和52年3月、約20年にわたる国営八郎潟干拓建設事業が完成し、日本のモデル農村としての大潟村で、大型機械による効率的な農業経営を実践する基盤が整いました。    

 

干拓前 干拓後
干拓前の八郎潟 干拓後の八郎潟

 

お問合せ先

八郎潟農業水利事業所
〒010-0442
秋田県南秋田郡大潟村東1ー1(旧秋田県農業研修センター 2F)
電話:0185-47-7667