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東北農政局

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地域の歴史

越前堰(えちぜんぜき)    

  安土桃山時代、雫石城主に仕えた綾織越前広信(あやおりえちぜんひろのぶ)は、荒漠たる滝沢市の平野の新田開発のために、水を求めて自ら白馬にまたがって岩手山中を駆け回り、岩手山中の「持籠(もっこ)森」に水源を見つけました。

 
   標高の高い岩手山中から標高の低い山麓地域に水を引くのは大変な土木工事でした。越前広信は、「七ツ森の見立て森」というところに上がって、地形を観察し、沢の流れるルートや土地の高低差などをつぶさに観察しました。当時は測量器械などがなく、高いところからの観察や踏査を行って水路のルートを選んでいきました。夜、提灯をともして土地の高低差を測る方法は、提灯測量(ちょうちんそくりょう)と呼ばれています。

提灯測量


   水路は、山の斜面や山裾、原野を切り開き等高線に沿って開削していきました。多くの人々の献身的な努力により、1610年に延長36kmの農業用水路が完成しました。掘った人の名前から「越前堰」と呼ばれ、人工の水路としては岩手県で最も古い農業用水路となっています。

  そして約430haもの水田が拓かれるとともに、その後この地域では、鹿妻穴堰(かづまあなぜき)(1599年)、寿庵堰(じゅあんぜき)(1617年)、土淵堰(どえんぜき)(1644年)などが次々と着手されました。

 山を開削し通水した越前堰


 

国営岩手山麓開拓建設事業(前歴事業)

  

  事業実施以前の本地区は大きな川もなく、火山灰土の土地は雨水に流されやすく、水田には適していませんでした。地元農家からは「収入が多い米の生産ができないか」との声が上がりました。そこで、岩手県議会議員であり滝沢村村長であった柳村兼吉氏は、直ちに岩手山麓1市21町村に及ぶ大規模国営事業による開拓事業の推進を訴え、一大政治運動を展開していきました。

  柳村氏は、地域の生産性が低く遅れている要因は、北上川の氾濫と冷害にあるとし、北上川の治水を基盤としつつ農業水利、農地開拓、電源開発を総合事業として進めることを提唱しました。その際、北上川は松尾鉱山の廃水流入で農業に適さないことから、廃水の影響のない北上川支流の岩洞地点にダムを建設し水資源を確保し、岩手山麓地域に導水することと併せて発電を行うことを提唱したのです。

柳村兼吉氏の銅像 


  柳村氏は、反対者を粘り強く説得するとともに、私財をなげうって自ら東京に出向き、政府や国会議員へ「ダムを造り導水管で水田まで水を引きたい」と要請活動を繰り返しました。彼の熱意は、ついに地域と国を動かし、昭和26年に「岩手山麓建設事業促進期成同盟会」の発足、昭和25年の国土総合開発法の施行を受けて昭和28年に「北上川特定地域総合開発計画」が閣議決定され、この計画の一環として、岩洞ダムの建設と岩手山麓開拓が実現することになりました。
  「国営岩手山麓開拓建設事業」は本格化し、昭和35年から40年にかけて開墾のピークを迎えました。昭和42年の最終計画変更によると、事業の受益面積は、約11,800ha(開田2,500ha、開畑5,800ha、採草地等3,500ha)で全国各地から約3,900戸の農家が入植しました。

事業名 事業期間 主要工事
国営開拓建設事業
「岩手山麓地区」

受益面積
    8,345ha
事業費
    6,585,000千円
昭和16年度
  ~昭和43年度
岩洞ダム 1式
間接流域取水施設
(取水堰堤他)
1式
小岩井ため池 1式
主幹線用水路 L=64.0km
幹線用水路 L=112.6km
揚水機場 4箇所
主幹線排水路 L=19.0km
主幹線道路 L=176.5km
幹線道路 L=307.9km
雑飲料施設 4箇所



お問合せ先

岩手山麓農業水利事業所
〒020-0733 岩手県滝沢市篠木待場80
電話:019-699-2225