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東北農政局

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地域の成り立ち

   当地域の新田開発は、平安末期(1100年代)頃から始まったと伝えられていますが、北上川の下流域に位置するため、河川の氾濫が繰り返され、開発を阻害していました。

   源頼朝の奥州征伐により平泉藤原氏が1189年に滅亡した後、この地方は牡鹿地方を本拠とする葛西氏と大崎地方を本拠とする大崎氏によって治められていましたが、豊臣秀吉の奥州仕置により葛西・大崎氏が滅亡し、旧葛西・大崎領は1600年頃から伊達正宗の所領となり、近世を迎えることとなりました。

   宮城県内の北上川流域は、大雨になると流路がいくつもでき、大洪水が発生し、流域は氾濫を繰り返していたため、北上川の流路を変更する大規模な河川改修工事が行われました。

日和山公園の川村孫兵衛像
(日和山公園の川村孫兵衛像)

 一つは1606年から1609年に伊達宗直が指揮した上流部の流路変更(北上川の二股川へ合流)であり、一つは1617年から1627年に川村孫兵衛重吉が指揮した下流部の流路変更(北上川、迫川及び江合川の三川合流)です。これらの工事によって、北上川、迫川及び江合川流域には広大な野谷地が広がり、新田開発が可能な条件が整いました。

   新田開発の候補地として、桃生郡の旧江合川沿いに広がる低湿地帯があげられ、かんがい用水を確保するため、1662年から1665年に深沼(大沼)を基として「広渕大溜池」(貯水量13,894千m3)が築造されました。大溜池の水源は、遠田郡名鰭(なびれ)沼に求め、鳥谷坂(とやさか)に潜穴を掘り、継入堀(つぎいりほり)によって導水し、和渕・鹿又・須江・赤井・蛇田等の水田約2,500haのかんがいに当てられ、地域農業の発展に大きな役割を果たしました。しかし、その一方で、排水条件を改善したい遠田郡側と用水源を確保したい桃生郡側との間で深刻な水利紛争が勃発し、その紛争は大正期まで続きました。

   大正期に入ると、ポンプ技術の発達により北上川からポンプ揚水することが可能となり、広渕大溜池はその役割を終え、食料増産対策として1921年から1928年に「広渕沼干拓」が行われ、約800haの水田が開発されました。また、1935年から県営遠田・桃生・牡鹿3郡用排水改良事業が実施され、用排水施設の整備が進められ、用水施設関係は1939年までに完成しましたが、排水施設関係については、第二次世界大戦等の影響により用水施設関係ほど進捗しませんでした。

お問合せ先

河南二期農業水利事業所

代表:0225-25-4588