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関東農政局

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4. 農と歴史

    昔、鬼怒川南部地区で水田の副業として行われていた畑作についてご紹介します。

 

木綿・真岡木綿

    近世の真壁町、真岡市、下館市、結城市などの鬼怒川・小貝川の流域では、両河川の氾濫によって堆積した土砂に綿の栽培がおこなわれていました。農家の女性は農作業の合間に、その木綿で縞木綿を織って商品にしていました。それらは真岡木綿、結城木綿、石毛縞、竜ヶ崎木綿として知られ、問屋商人によって江戸の市場に多数出荷されました。この地域で生産される材料の繰り綿だけでは足りなかったので、関西から買いたした繰り綿も合わせて加工していました。

    木綿の生産は江戸初期以降著しく増大しました。寛永20年に草綿を田に作付けすることが禁じられたため、畑作として作られるようになりました。

    17世紀後半には縞木綿より上質の晒木綿が生産されるようになり、江戸で「真岡晒」、「真岡木綿」と呼ばれ、上質の綿織物として歓迎されました。

    その後、明治政府の生糸輸出重視政策の中で、桑の栽培面積が増やされ、農家の繭生産および養蚕業が発展し、在来的綿業は衰退していきました。また、葉タバコ栽培を導入した地域もありました。

 

絹織物・結城紬

    茨城県結城市と栃木県小山市にまたがる鬼怒川と田川に沿った地域では、自然堤防上が桑畑として利用されていました。古くから養蚕業が盛んで、結城紬等、絹織物の紬の生産地でした。周辺の地名にも、鬼怒(絹・衣)川・小貝(蚕飼・養蚕)川・糸繰川(小貝川の支流)のように、養蚕・製糸にかかわるものが多く残っています。

    17世紀後期には蚕種生産地として知られていましたが、度重なる鬼怒川の洪水のため、桑畑が壊滅的な打撃を受け、蚕種の主生産地は奥州伊達地方に移ってしまいました。

 

猿島茶

    猿島台地の野方と呼ばれる洪積台地は、火山灰土で地味が弱く、サツマイモを除いては特徴的な農作物もなく、水田にも恵まれていませんでした。

    この地域では北西から「猿島の空っ風」が吹くので、農民は近世の始めごろから畑の畔に防風垣として茶を植えるようになりました。この猿島のお茶は天日干しの粗末な製茶ゆえに江戸で安く売られていました。

    何とかこれを改めたいと考えた豪農の中山元成らは、宇治の製茶師の多田文平を招き、製茶法の指導を受けました。そして、茶園と製茶工場を開き、焙炉(ほいろ)による製茶を始めました。

    すると、猿島茶は江戸で好評となり、安政5年(1858年)の開港後は輸出も行われました。

    その後、茶価暴落などの打撃により、茶畑はやがて葉タバコに変わっていきました。

 

    下館市、下妻市、八千代町では、1859年に群馬県藤岡市の館野定四郎が来て、西村七郎平と共に梨の栽培を始めました。この梨は関城梨と言われていました。

 


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