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九州の風土と石橋文化 


“石橋王国”熊本・大分


石橋の仕組み


急峻な地形と石橋


阿蘇山がもたらした岩石


熊本城の石積み職人


九州・石橋ギャラリー

 

  九州、特に熊本県や大分県は“石橋王国”とも表現できる地方です。江戸時代以降、九州にかけられた数々の石橋は、人やモノ、また、農業用水などを渡し続け、この地に欠くことのできない役割を果たしてきました。
  石橋の築造には、土木技術の粋ともいわれる高度な技法が使われているといわれています。このコンテンツでは、現在も荘厳な雰囲気すら漂わせながら地域にたたずんでいる九州の石橋について簡単に紹介します。

 

“石橋王国”熊本・大分  

  橋の起源は、偶然に川をまたぐように横たわった倒木や、川の浅瀬から突き出た岩などを渡っていたことにあると考えられています。人工の石橋は、今から6000年以上も昔、紀元前4000年ごろのメソポタミア文明によって、すでにかけられていたといわれます。また、現在も残っているローマの水道橋は、今から2000年以上前のローマ帝国の時代に造られたものです。
  日本の石橋は、その多くが江戸時代から大正時代までに造られました。著名な石橋研究家である故山口祐造氏の『石橋は生きている』(葦書房発行)では、平成4年時点で、日本に残っている石橋は1,300基以上、うち約1,200基、実に90%以上は九州にあったことが示されています。なかでも、大分、熊本の両県は、367基、330基と特に多く、合計で九州全体の半数以上を占めています。
  石橋を造る技術は、江戸時代に中国から沖縄・長崎へ伝わったといわれています。大陸から九州へ伝わったという点では、弥生時代の稲作や鉄などと同様ですが、稲作や鉄が伝来後、全国へと広まっていったのに対し、石橋の技術は、ほとんど九州のみで発達したようです。
  九州地方、特に熊本県や大分県で数多くの石橋が造られたのはなぜでしょうか
     ――このコンテンツでは、石橋の仕組みや九州の風土、歴史から、その理由を探り、また、各地の石橋を紹介したいと思います。

通潤橋(熊本県山部町)

通潤橋(熊本県山都町)

(写真提供:全国水土里ネット)

 

日本に残る石橋の割合

日本に残る石橋の割合

 (平成4年時点)

資料:『石橋は生きている』

 (山口祐造著葦書房発行) 

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石橋の仕組み 

  橋は、その構造によって、桁橋(げたばし)やつり橋、アーチ橋など様々な種類に分けられます。このうち、日本で造られた石橋のほとんどはアーチ橋という構造になっています。
  アーチ橋は、図のように、アーチの部分にかかる力(圧縮力)が釣り合うことで、橋自体が支えられる仕組みとなっています。例えば桁橋と比較すると、丈夫でたわみにくいという特徴があり、また、その構造上、アーチの部分は、端から端まで連続する(つながっている)材料を使う必要がありません。そのため、石のように、一つ一つの細かな材料を積み上げて造ることが可能になります。
  橋は、人や物が谷や川などを渡って、目的地へ向かうために造られるものです。多くの人が日常的に通り、時には大きな荷重がかかる荷物が運ばれることもあるため、丈夫で壊れにくいことが重要な条件になります。地震や台風など、自然の猛威にさらされることの多い日本ではなおさらです。
  森林が多く、木材の豊富な日本では、古くから橋といえば木造の桁橋が中心でした。江戸時代に入り、丈夫で壊れにくい石造りのアーチ橋が伝わったことは、少なくとも九州地方にとっては、画期的なことであったと思われます。
  先に紹介した『石橋は生きている』(葦書房発行)では、九州の石橋の4分の1が、江戸時代までに造られたものであることを示しています。これらの石橋は、少なくとも150年以上、現役であり続けていることになり、その頑強さをうかがい知ることができます。

アーチ橋と桁橋の構造

アーチ橋と桁橋の構造

 

九州に残る石橋の築造年代別割合

九州に残る石橋の築造年代別割合

 (平成4年時点)

資料:『石橋は生きている』

(山口祐造著葦書房発行)

 

急峻な地形と石橋 

  図1は、熊本県を流れる緑川流域(一部)の地形図です。熊本県の中でも、この地域は、石橋が特に多く、現存するものは80基以上を数えます。これは県全体の4分の1を占める数です。
  また、図2は、“日本一の石橋の町”とも称される大分県の宇佐市院内町周辺の地形図です。「“石橋王国”熊本・大分」で紹介したように、大分県は九州でも最も石橋の多い県ですが、宇佐市院内町にある石橋は75基、やはり県全体の4分の1近くを占めています。
  地形図から一見して分かるのが、どちらも山が入り組み、それを縫うように谷間が形成されている様子です。いくつもの谷間は、両地域を流れる幾筋もの細かな川によって刻まれてきたものであり、古くからこの谷間に集落が作られ、生活が営まれてきました。細かな川や深い谷の多いこれらの地域では、橋がなければ、隣村に行くこともままなりません。橋は必要不可欠な移動経路でした。
  また、大地に深い谷を刻んできたことからも分かるように、両地域の川は流れが急なため、例えば、木で橋をかけても、洪水などが起こるとすぐに流されてしまいます。石橋がなかった時代は、流された木造の橋を修築するために、相当な費用と苦労を強いられたことでしょう。
 
熊本や大分に頑丈な石橋が数多く築かれた背景には、こうした地形的な要因が第一にあったものと思われます。

熊本県緑川流域(一部)の地形図

図1 熊本県緑川流域(一部)の地形図 

 

宇佐市院内町周辺の地形図

図2 宇佐市院内町周辺の地形図

 

阿蘇山がもたらした岩石 

  熊本県の東部、九州地方のほぼ中央部には、世界でも最大級のカルデラ(火山の活動によってできた大きなくぼ地。阿蘇山のカルデラは、南北23km、東西約18kmに及び、カルデラ内には、阿蘇市と南阿蘇村が位置しており、国道や鉄道も整備された通常の町として発展しています。)を持つ阿蘇山がそびえています。阿蘇山は、今から30万年前から9万年前まで、4回にわたり大規模な噴火を起こしており、この時に、カルデラが形成されたと考えられています。
  9万年前の噴火については、火口から流れ出た火砕流(火山が噴火した際、高温のガスや火山灰などが一団となり、山の斜面を伝って流れ出る現象のことです。)が海を越えて現在の山口県まで至り、また、噴出した火山灰が西風に乗って、北海道まで運ばれたことが分かっています(鎌田浩毅『火山はすごい』(PHP新書)による。)。九州地方は全体の約半分が火砕流で覆われ、全域に高温の火山灰などが降り積もりました。そして、この高温の火山灰などは、地上に積もった後、その熱や圧力によって岩石(熔結凝灰岩:ようけつぎょうかいがん)へと変わっていきました。
  九州の大地には、この阿蘇山の大噴火によって作られた岩石が豊富に含まれています。比較的軽く、やわらかいため、加工がしやすく、多くの石を積み上げなければならない石橋の材料に適していました。
 
石橋が全国的な発展をみせなかった一つの要因として、材料となる石の入手が難しかったことが挙げられます。逆に、九州で石橋が数多く造られた要因には、阿蘇山がもたらした豊富な岩石があったものと考えられます。

阿蘇山の噴火口の様子

阿蘇山の噴火口の様子 

 

上空からみた阿蘇山の地形

上空からみた阿蘇山の地形

 

 

熊本城の石積み職人 

  九州最古の石橋(石造りのアーチ橋)は、1634年、長崎県の中島川にかけられた「眼鏡橋」といわれています。この橋は、中国出身の僧、如定(にょじょう)の指導により造られたもので、以後、石橋は九州全域へと広がりました。
  しかし、熊本では、これより以前、この地に石橋を根付かせる大きな要因になったともいえる大事業が行われています。加藤清正による名城・熊本城の築城です。戦国武将としての武功に隠れ、あまり知られてはいませんが、清正は「城造りの天才」「土木の神様」とも形容された人物でした。
  (加藤清正は、賤ヶ岳の戦い、関が原の戦い、朝鮮での虎退治など、数えきれないほどの武功を立てた戦国武将です。1588年に、肥後国(現在の熊本県)の北半分を豊臣秀吉に任されました。)
  熊本城の築城にあたり清正は、当時、日本最高峰の石積み技法を誇っていた「穴太衆(あのうしゅう)」という職人たちを、近江(現在の滋賀県)から呼び寄せました。穴太衆 は、記録に残るだけでも、安土城や大阪城、江戸城、駿府城、名古屋城など、数々の名城を手がけた技術者集団です。他に類を見ない熊本城の壮大な石垣も彼らが築き上げることになりました。
  築城は、1601年から始まり、1607年に完成しますが、穴太衆は、その後もこの地に残り、河川の改修や干拓堤防の築造、用水路の整備など、清正が力をいれた土木工事にその技術を発揮し続けました。石積みをはじめとする技法は、地元の石工や民衆たちにも吸収され、この地に根付いていったことでしょう。
 
熊本に最初の石橋が築かれたのは、熊本城の築城から約170年後、1774年のことです。以後、数多くの石橋が造られ、石橋づくりの職人たちは、「肥後の石工」と呼ばれるようになりました。その技術は、九州各地へ伝わっており、大分の石橋も肥後の石工がもたらしたものといわれています。

熊本城

熊本城

 

熊本城の石垣

熊本城の石垣

 

 

九州・石橋ギャラリー 

  地形的な要因による橋の必要性、阿蘇山のもたらした軽く加工しやすい岩石の存在、加藤清正や穴太衆によってもたらされた土木技術と石積みの技法。様々な要因が絡み合って、九州(特に熊本・大分)には数多くの石橋が架けられました。
  一つ一つの石橋には、有名無名の石工たちによって、土木技術の粋ともいえる高度な技法が込められています。そして、現存する石橋の多くは、橋としての役割を果たすだけでなく、文化遺産として地域に溶け込み、大切に保存されています。
  ほんの一部ですが、九州に築かれた主な石橋を紹介します。

 

 長崎眼鏡橋

所在地:長崎県長崎市

架橋年:1634年

【国指定重要文化財】

 中国出身の僧、如定(にょじょう)によって、中島川に架けられた九州地方最古といわれる石橋です。中島川にはそれまで木造の橋が架けられていましたが、度重なる洪水を見かねた如定が、出身地である中国の技術を伝え、築かれたといわれています。

 

長崎眼鏡橋

長崎眼鏡橋

 

早鐘眼鏡橋(はやがねめがねばし)

所在地:福岡県大牟田市

架橋年:1674年

【国指定重要文化財】【農業用水路橋】

 
  石橋の中には、農業用の水を運ぶために架けられたいわゆる「水路橋」も数多くあります。早鐘眼鏡橋は、アーチ型の水路橋としては、日本最古のもので、大牟田川にかけられています。橋の上部に、石で作られた深さ33cm、幅45cmの用水路が設けられています。

早鐘眼鏡橋

早鐘眼鏡橋

 

  洞口橋(どうぐうばし)

所在地:熊本県山鹿市

架橋年:1774年

  熊本県最古といわれる石造りのアーチ橋です(写真は移築されたもの)。この石橋を造った石工の「仁平(にへい)」は、肥前(長崎)で石橋の知識と技術を習得したといわれており、その技術は、後に九州全体にとどろく「肥後の石工」の源流となりました。

 

洞口橋

洞口橋

 

雄亀滝橋(おけだけばし)

所在地:熊本県美里町

架橋年:1819年

【県指定重要文化財】【農業用水路橋】

  「神業(かみわざ)」といわれ、肥後の石工の中でも、特に卓越した技術を持っていたといわれる名石工「岩永三五郎(いわながさんごろう)」が築いた水路橋です。水路橋としては熊本最古であり、急峻な地形と石橋でも紹介した緑川流域の石橋です。    岩永三五郎は、後に薩摩藩(現在の鹿児島県)の要請を受けて、有名な鹿児島「五大石橋」も築造しています。

雄亀滝橋

雄亀滝橋

 

  霊台橋(れいたいきょう)

所在地:熊本県美里町

架橋年:1847年

【国指定重要文化財】


  大正、昭和に造られた新しい石橋を除けば、日本最大の単一アーチ構造(アーチ部分が一つだけのアーチ橋のこと。)の石橋です。上述した「雄亀滝橋」の築造にも関わった当時の惣庄屋(発案や計画、石工の手配、資金調達などを行う石橋造りの総責任者。)篠原善兵衛(ささはらぜんべえ)の発案によって築かれました。

  当時としては、例のない規模の難工事でしたが、善兵衛たちを中心にした団結力がそれを克服し、わずか7ヶ月という驚異的なスピードで完成に至っています。

霊台橋

霊台橋

 

 通潤橋(つうじゅんきょう)

所在地:熊本県山都町

架橋年:1854年

【国指定重要文化財】【農業用水路橋】

 
  緑川流域の中でも最も有名な水路橋で、橋の上部には水を通すための3本の石管が通っています。水に乏しい白糸台地を潤すため、惣庄屋「布田保之助」の発案で築かれました。

  熊本城の石垣や上述した霊台橋も参考にした石組みの技術は、肥後の石工の技術レベルを象徴するものであり、また、いわゆる「逆サイフォン」(サイフォンとは、水路などを使って、水をある地点から目的地まで通す際に、すき間のない導水管を使うことで、途中、出発地点よりも高い地点を通って水を導くことのできる装置です。逆サイフォンは、これを上下さかまさに応用したもので、出発点よりも低い谷などにすき間のない導水管を通し、その後、谷を上らせることのできる装置です。)の原理を利用した水路の構造は、現代の土木技術にも匹敵すると高く評価されています。

  橋の中央部には、水路内に溜まる土砂を吐き出すための放水口が設置されています。現在は、熊本有数の観光名所にもなっており、1~3月と田植えの時期を除き、基本的に毎週土・日曜、祝日に観光放水が行われています。

通潤橋

通潤橋

 

 筏場眼鏡橋(いかだばめがねばし)

所在地:大分県日田市高井町

架橋年:1806年

【県指定有形文化財】

  大分県東部を流れる筑後川の支流、内河野川に架けられた、筏場眼鏡橋。石造りアーチ橋としては、大分県に現存する最古のものです。(大分県最古の石橋は、石造方杖橋という形式で造られた、宇佐市の「とくしん橋(1753年築造)」といわれています。)橋の欄干は失ってしまいましたが、長さ9m、幅2.5mの橋脚は200年たった今も当時の姿を残しています。

   旧上野村安心院家に残る『安心院家文書』によると、筏場眼鏡橋は、日田郡竹田村の石工久治と五郎吉の指揮の元、約400人の人夫によって築かれたといわれています。

筏場眼鏡橋

筏場眼鏡橋 

 

 明正井路第一拱石橋(めいせいいろだいいちこうせっきょう)

所在地:大分県竹田市

架橋年:1919年

【農業用水路橋】

  豊後大野市緒方町一帯を潤すために開削された、総延長175kmに及ぶ明正井路。その途中には17基もの石橋水路橋が架けられました。その一つが明正井路第一拱石橋で、水路橋では日本最大の長さ(78m)を誇ります。


  会津出身の矢島義一によって設計され、熊本県出身の平林松造ら9名の石工によって造られました。しかし、築造には多大な労力と資金を要し、病に倒れた矢島義一が自ら命を絶ってしまうという悲話も残されています。

明正井路第一拱石橋

明正井路第一拱石橋

 

甲突川五石橋(こうつきがわごせっきょう)

所在地:鹿児島県鹿児島市

架橋年:1846年


  「五石橋」は、幕末、現在の鹿児島市を流れる甲突川に築かれた玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の5つの石橋を指す総称です。いずれの橋も、薩摩藩の城下町整備に伴って、上述した肥後の名石工「岩永三五郎(いわながさんごろう)」が招かれ、架けられたものです。

  完成以来、五石橋は長らく現役であり続けましたが、平成5年8月の鹿児島大水害によって、新上橋と武之橋が流出してしまいました。この時に残った玉江橋、西田橋、高麗橋には、文化遺産としての価値が重視され、平成12年に開園した「石橋記念公園」に移設されています。

 

西田橋

西田橋

玉江橋

玉江橋

高麗橋

高麗橋

 

 

農業土木の偉人 

  九州地方には、その高度な土地改良技術によって、地域に多大な恩恵をもたらす水利資産を築いてきた人々が数多く存在します。


  北部九州土地改良調査管理事務所、南部九州土地改良調査管理事務所のウェブサイトでは、「農業土木の偉人」とも呼べる彼らの功績や人生について、簡潔にまとめたコンテンツを用意しています。

北部九州土地改良調査管理事務所ウェブサイト「農業土木の偉人」 

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