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関東農政局

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3. 地域の自然

位置 河川 地形・地質 気候

3-1  位置

    鬼怒川南部地区は鬼怒川下流部、栃木県東南部の一部と茨城県西南部地域の一部に位置します。

 

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図3-1    鬼怒川南部地区の位置(帝国書院編集部編『新詳高等地図』を元に作成)

 

 

3-2  河川

一級河川鬼怒川

    現在の鬼怒川は利根川の支川の一つであり、概ね急流河川に属します。水源は標高2,020mの鬼怒沼であり、川治で男鹿川と合流し、佐貫で中禅寺湖を水源とする大谷川と合流し、延島で田川に合流します。そして守谷で利根川に合流します。水源の鬼怒沼から守谷まで、およそ176kmを流れます。流域面積は1,760km2です。

    急流河川のため、河川水の流速が大きい反面、いったん渇水となると用水不足を来たす川です。

    河川の土砂運搬・堆積作用により、鬼怒川の河床はただでさえ低下しつつありますが、関東地方の有力な骨材生産地として、戦後の一時期には、砂利の採取量が年間200万m3にもなり、全川にわたって一層の河床の低下をきたしました。そのため、河川内の砂利の採取は現在は禁止されています。

 

関東流の河川改修  ~江戸時代初期~

    かつての関東では河川や湖沼は現在より大きな面積を占めており、洪水の危機に常に晒されていましたが、戦国時代には戦乱のため、利水事業や治水事業は充分行われませんでした。

    徳川幕府は関東を治めるに当たり、関東平野の各地で河川改修を行いました。これには、(1)洪水から江戸を守ること、(2)利根川水系の広大な低湿地を安定した耕地にすること、(3)河川の水をかんがい水として利用すること、(4)太平洋沿岸部と江戸湾、そして東北地方を利根川水系の整備を通して結びつけ、水運に活用することなどの目的がありました。そして安定した新田から上がる年貢米を舟運を用いて確実に江戸に送り届けることによって財政を安定させようとしました。

    江戸時代初期に治水・河川改修を任されたのは徳川家康の家臣である伊奈備前守忠次と彼の土木技術を引き継いだ伊奈一族でした。彼らは関東流の治水技術によって、東京湾に流れ込んでいた利根川と渡良瀬川を鬼怒川流域を通して太平洋に流す工事を行いました(図3-2、3-3)。

    彼らは鬼怒川と小貝川についても河川改修を行いました。今から約1300年前の鬼怒川は、毛野川或いは絹川と呼ばれ、小貝川と繋がっており、葦原を通って太平洋に注いでいました(図3-2)。まず、鬼怒川に4つの堰を設け、鬼怒川から取水して小貝川に排水する用排水路を整備しました。次に、1629年にはその下流で鬼怒川水系と利根川水系の分水界の台地である水海道と板戸井(守谷)の間を開削し(図3-3の青色着色部分)、鬼怒川を小貝川と分離して常陸川(現在の利根川)に流すように流路を変更しました。

 すると、勾配の大きくなった鬼怒川下流部は河床が低下し、取水困難となりました。しかし、財政難のためその後50年間放置されたまま営農していました。

 

印旛沼地図

図3-2    約千年前の河川

印旛沼地図2

図3-3    現在の河川

(関東農政局鬼怒川南部農業水利事業所編『鬼怒南』一部修正)

 

紀州流の河川改修  ~江戸時代中期~

    徳川家八代将軍吉宗の時代になると、享保改革の新田開発政策がとられ、吉宗に呼ばれて紀州からやってきた井沢弥惣兵衛為永の指導で飯沼、大宝沼などの多くの湖沼が干拓され、新田開発が行われました。沼を干拓して新田を作り、水源を失う代わりに用水路を掘削して鬼怒川などの河川から用水を引くという方針でした。

 

 

飯沼の干拓

    江戸時代初期以前の飯沼は、下野国に源を発する江川が流れ込む幅約4km、長さ約2kmの葦の生い茂る湿原で、鬼怒川に流出していました。江戸時代初期の河川改修の後、鬼怒川の河床が上昇し、流れ込む水がせき止められて沼沢地となりました。当時は雨が降って鬼怒川が増水すると、鬼怒川から逆流した水で飯沼は満水となり、周辺の田畑は冠水し、農作物に甚大な被害を与えていました。

    享保10年(1725年)になると、井沢弥惣兵衛為永によって飯沼が干拓され、新田開発が行われました。これは、飯沼の中央に飯沼川を開削し、菅生沼を通して利根川に落とす(図3-3)とともに、鬼怒川の水を吉田(下野市)から引いて干拓地にかんがいするという計画でした。

    ところが、その導水路は分水と漏水のため飯沼の干拓用水としては役に立ちませんでした。さらに洪水によって上流から運ばれた土砂の堆積や天明3年(1773年)の浅間山の大噴火で降り積もった火山灰によって利根川の河床が上昇してしまいました。その結果、利根川の水が逆流しやすくなり、飯沼干拓地は再び排水不良になり、毎年のように水害を受けるなど、営農上の大きな負担になっていました。利根川の河床は、享保年代から明治30年までの間に3m以上上昇しました。 

    飯沼新田に流れ込む水を迂回させるために飯沼の周りに掘った西仁連川、東仁連川などの承水路が掘られましたが、排水能力は十分ではありませんでした。

    その後、県営事業による昭和4年に幸田排水機場の設置、昭和19年の西仁連川の改修、昭和24年の東仁連川の改修、昭和58年の幸田新排水機場の竣工等を経て美田地帯が成立しました。 

 

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図3-4    飯沼の干拓(『霞ヶ浦用水一期    事業誌』より)

 

 

3-3  地形・地質

 

    本地域では、関東ロームと段丘礫層が堆積してできた洪積台地を鬼怒川や田川、小貝川が浸食し、河岸段丘や浸食谷である細長い谷津の地形を形成しています。火山活動によるローム層の形成と、地盤運動と河川による河岸段丘の生成が交互に起こりました。関東ロームは下から、宝積寺ローム層、宝木ローム層、田原ローム層の順に堆積しています。過去に鬼怒川の流路が何回も変わったため、複雑な段丘面になっています。また、鬼怒川の両岸には沖積低地が狭く分布しています(図3-5,3-6)。

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図3-5    鬼怒川流域関東ローム層(標準柱状図)(『鬼怒南』より)

 

 

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図3-6    茨城県と栃木県の地形
(日本地誌研究所編『日本地誌』5  町田貞原図および「角川日本地図地名大辞典」編集委員会編『日本地名大辞典』9  平山光衛原図を元に作成)

 

 

3-4  気候

    昭和17年から36年までの20年間のデータによると、年平均気温は12~15℃です。年間平均降雨量は1,200mm~1,300mm程度で、その3分の2はかんがい期間中に降ります。 



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