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関東農政局

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2.進む安曇野の開発【「農」と歴史】

おびただしい水路網

  安曇野(あずみの)では、ほとんどの用水堰が中世に開発されたと言われており、多くは梓川(あずさがわ)や烏川(からすがわ)に取水を求めています。これらは中世の荘園である住吉荘や矢原御厨(やばらみくりや)などの成立とともに開発されていったと考えられています。「せき」は水の取り入れ口を築くために川に設けられた仕切りですが、この地方では水路のことを堰といい、「せぎ」と呼んでいます。


江戸時代の関の見取り図(左岸側)

 

立田堰(りゅうだせぎ)

  平安中期に開削されたという梓川左岸で最も古い堰。かつては右岸の和田堰が梓川の最上流で取水していましたが、その後、堰の破損などにより下流の赤松に移したため、この立田堰が最上流の堰となりました。左岸上流にある旧梓川村(松本市)にあった村々約300haを潤していました。


横沢堰

  左岸で2番目に古い用水。立田堰の下流で取水し、氷室堰、小梨沢と分流しながら、旧三郷村(安曇野市)の藤ノ木、一日市場(ひといちば)の約160haを潤しています。


温堰(ぬるせぎ)

  この堰は、梓川から烏川の扇状地に達する延長約11km、灌漑面積約1,000haという大用水であり、途中、荒堰、小田多井堰(こだたいせぎ)、中沢堰、住吉堰、新堰などの幹線水路を分水しています。もっとも、最初からこれほど巨大だったわけではなく、集落の成立とともに順次延長しながら開削されていったものです。また、原始的水路であった男女沢(おめざわ)堰や大荒田堰も改修しながら温堰に組み込まれていきました。

 

荘園の開発

  中世とはひとことで言えば、「荘園」という私有地をめぐる混乱の時代でした。荘園とは簡単に言えば公領(朝廷の領地)以外の私領のことで、中央貴族や有力寺社、さらには地方の豪族たちが自ら開発して荘園主となります。租税をめぐる混乱から各地で武力による衝突が発生し、武装した豪族たちは、自らの荘園を保障してくれる幕府を樹立しました。やがて、幕府の権力も有名無実となり、群雄割拠する戦国時代を迎えることになります。

  安曇野には、「矢原御厨(やばらみくりや)」という約2,000haに及ぶ広大な荘園がありました。御厨とは、本来伊勢神宮(いせじんぐう)に奉納するお米を作っていた荘園のことであり、藤原氏の所領であったようです。また、梓川や黒沢川(くろさわがわ)の扇状地にあった「住吉荘」も、武士政権による抗争が激しくなる中で、室町時代末期まで京都に年貢を送り続けたという稀有な荘園でした。

  信濃(しなの)国には「春近(はるちか)領」がいくつかあります。春近領とは、鎌倉幕府の有力在庁が「春近」という架空の名義を使って設立した所領であり、鎌倉幕府の将軍家の御領を意味します。全国各地に分布していますが、信濃国内には、近府春近、伊那春近、奥春近とあり、近府春近領は、松本市、塩尻市、旧梓川村にある6郷でした。

  この地方は全国でも最も早く武士の国司が誕生したところであり、松本市の井川城(いがわじょう)を拠点とした小笠原氏(おがさわらし)も鎌倉幕府と深いつながりがありました。

  いずれにせよ、こうした在地領主による荘園開発が、結果としてこの盆地の開発を進めることになります。

 

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