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関東農政局

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3.横堰による開発【「農」と歴史】

激化する水争い

  温堰(ぬるせぎ)」は、新しい村ができるたびに延長されたり、分流(別の用水に水を分ける)したりして水田区域を広げていきました。(2.進む安曇野の開発を参照)右岸の「和田堰」も下流で分流し、「新村堰」「榑木堰」「栗林堰」などができて新しい水田が誕生しています。

  こうして、1本の水路から、まるで縄をほぐすように水が分けられ、可能な限り水田が広がることになります。しかし、川の水量が豊富な時はいいのですが、ひとたび日照りが続いて渇水になると、下流の村には水が届きません。「和田堰」は最上流にあり最も古い用水なので水は取り放題です。しかも、ここは幕府領であったため、水争いが発生するたびに江戸まで出張して幕府の判決をあおぐという面倒なことをしなければならなかったのです。

  旧堀金村や旧穂高町(現安曇野市)では水量の少ない烏川(からすがわ)の水を引いていたため、潤ったのは上流の村々だけで、中流から下流にかけては広大な不毛地帯が広がっていました。

  また、黒沢川(くろさわがわ)の扇状地は川の水が潜ってしまうためほとんど利用できません。梓川(あずさがわ)の最下流左岸に位置する旧豊科町(現安曇野市)も上流堰の水が届かず、江戸時代まではほとんどが開発の困難な地域でした。

  一方、鎖川(くさりがわ)は高遠藩(たかとおはん)の領地であった朝日村と下流の幕府領・今井村の用水源でしたが、日照りの時には水争いが頻発しています。特に下流が幕府領であったため「大川落し」という今井村に有利な慣行があり、厄介な問題となりました。

  水争いは、の上流と下流だけではなく、梓川の右岸と左岸でも起こっています。要するに、川の水の絶対量が限られているにもかかわらず、開発が進んだためにあらわになってきた矛盾であり、これ以上の新田開発は物理的な限界があったのです。

 

横堰の出現

  ところが、江戸の初期、その矛盾を乗り越える人物が現れます。矢原村(旧穂高町)の庄屋・臼井弥三郎(うすいやさぶろう)。彼は犀川(さいがわ:梓川と奈良井川の合流)から水を引くことを思いつきました。犀川の合流点近くと10kmほど離れた矢原村ではわずかですが10数mの標高差があります。犀川から等高線に沿って徐々に下る水路を造れば、水を引くことも原理的には可能なはず。しかし、それには極めて高い測量技術が要求されます。コンクリートもない時代、まして川の水すら潜ってしまう小石だらけの土地。着想は素晴らしいとしても、神業のような技量が要ります。村中を敵にまわして、しかも、失敗すれば末代の笑いもの。

  何度も何度も試して失敗を繰り返したそうです。それにもめげず、松本藩に許可願いを出します。失敗した水路のそばに磔柱を立て、「事もし成らずんば、極刑におもむかん準備すでにあり。あえて役人を煩わさず」と涙ながらの悲壮な決意。さすがに藩も工事を許しました。

  延長約9km。扇状地先端の最も水のなかった村を潤したこの堰の成功は、地元に大きな展望を与えたに違いありません(完成は1654年)。

  その25年後、新田堰(しんでんせぎ)という奇妙な水路が完成します。新田堰は、元は平安時代に造られた真鳥羽堰の余り水を利用した貧弱な用水でした。そこで矢原堰を見習って、等高線沿い に梓川の下流まで水路を掘りますが、梓川は上流で水を取られてしまって小石だらけの枯川原と化しています。ところが、奇妙にもそのまま掘り進み、隣の奈良井川(ならいがわ)の水を引いてきたのです(図参照)。前代未聞というべきでしょう。

  さらにその数年後、同じように梓川を横切って奈良井川から取水し、扇状地の中央に水を引く勘左衛門堰(かんざえもんせぎ)が誕生します(1685年)。

  通常の水路はスキーの直滑降のように斜面を真っ直ぐに降りていきます。水の流れも速く、遠くまで流せます。ところがこれらの新しい堰は、等高線とほぼ平行に、いわば斜滑降のように斜面を横切るということで、「横堰(よこぜき)」と呼ばれています。この時代、全国にもほとんど例がなく、安曇野(あずみの)名物とも言えるでしょう。

 

拾ヶ堰の偉業

  それでもまだ旧穂高町一帯には広大な原野が残されていました。これらの横堰の総集編ともいえる拾ケ堰(じっかせぎ)が誕生するのは江戸期後半の1816年。同じく奈良井川から水を取り、この大複合扇状地の中央を約570mの等高線に沿って横切り、約1,000haの水田を潤すという安曇野一の大水路です。

  長さ約15km、勾配は約3,000分の1です。3km進んでようやく1m下がるというゆるい勾配は、ほとんど水平と言ってもいいでしょう。近代的水準器や望遠鏡もない時代、鍬やモッコだけによる手掘りの水路。奇跡的な水路と呼んでも大袈裟ではありません。

  しかも、この工事は着手から、わずか3ヵ月という驚異的な早さで完成されています。春の訪れとともに工事を開始し、梅雨に入るまでに完成させねばならなかったのです。工事に携わった人数は述べ6万7千人。

  10に及ぶ村を潤すというので拾ヶ堰と名づけられたといいます。

  この偉業を成しとげた功労者は数多いのですが、記憶されてしかるべきは、柏原村の庄屋・等々力孫一郎。彼は26年間にわたって土地を詳細に調べ上げ、反対派の暴漢に襲われながらも、松本藩への交渉を成立させています。また、この難事業の設計にあたったのが同村庄屋の中島輪兵衛(なかじまわへえ)と堀金村の技術者・平倉六郎右衛門。さらに、この世紀のプロジェクトを理解し推進役となった松本藩土木掛の青木新兵衛も挙げることができます。

  26年間という、ほとんど人の半生に及ぶ調査。そして、3ヵ月という瞬く間の工事。

  この拾ケ堰によって、安曇野は長野県下でも1、2位を競う米どころへと変貌したのです。そして、もちろん、現在もこの堰は、大幹線水路として安曇野の田を潤し続けています。


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