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近畿農政局

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吉野川・紀ノ川分水の歴史

 

300年にもおよぶ大和の悲願、紀州の苦悩。

その歴史から、先人の苦労とその礎を振り返ることで、

改めてこの歴史的偉業の重要性を認識し、次世代にその資産を

よりよく継承することが私たちの責務であると考えます。

大和豊年米食わず 

  このことばは、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多く不順な年となり、他が豊作であれば大和は干ばつに苦しむ、つまり、大和平野の農業用水の水不足をいいあらわしています。
  もともと少雨地帯であり、大きな河川に恵まれず、水源のほとんどをため池に頼ってきました。
  ところが、山ひとつ隔てれば、日本有数の大河・吉野川(紀の川)が流れています。しかも、大台ケ原など最も雨の多い流域は奈良県。そこに降った雨のほとんどが紀州(和歌山県)に流れていく。なんとか吉野川の水を大和平野へ引けないものか(分水という)。これが大和平野の農民のかなわぬ夢でした。
吉野川・紀ノ川分水-井戸







隠し井戸による水汲みのようす

 

 大和平野への分水計画

  この吉野川分水計画は、すでに江戸初期(元禄年間)、高橋佐助によって提案されています。寛政年間(1700年代後半)には角倉玄匡(すみのくらはるまさ)による実地調査。また、幕末に立てられた下渕村の農民の分水計画や辰市祐興らの分水計画を元に、明治政府が現地調査も行なっています。まさに、吉野川分水は江戸から昭和にいたる300年の間、浮かんでは消え、消えては浮かんだ大和平野の歴史的悲願だったのです。 吉野川・紀ノ川分水-普請入費積り書







吉野川分水普請入費積り書
           

紀州の思い

 「冗談じゃない」というのが紀州の言い分でした。降る雨は奈良県のものかも知れないが、洪水の被害をこうむるのは紀州だ。
  紀ノ川(吉野川)は、歴史に名高い暴れ川でした。一年に二度の割で大洪水が和歌山城下を襲い、幾万という人が亡くなっていました。それに紀の川は河況係数が3,740(最大流量と最小流量の割合)と日本一大きい川でした。降れば大洪水、日照れば大渇水。
  十万人の農民が鐘を打ち鳴らし庄屋を襲ったという文政6年(1823)の百姓一揆は、干ばつに苦しめられてきた農民の怨嗟が爆発したものです 。
 「渇水に苦しんできたのは大和だけではない。こちらは、水害と渇水の両方に耐えてきたのだ」。
大和の悲願、紀州の苦闘。それは永遠に歩み寄ることもできそうにない歴史的矛盾でもあったのです。
吉野川・紀ノ川分水-紀ノ川








紀ノ川


 

紀ノ川に注ぐ水はたとえ、その一滴たりとも余人の勝手は許さず

  奈良県は、明治のはじめになると吉野川分水の代案である宇陀川分水(木津川水系)の計画を立て工事を開始します。
 
  しかし、事業半ばで挫折します。
再び、明治18年には分水の調査計画が県会で議決され、ついで、日清、日露、第一次大戦を経てますます食糧増産の機運が高まるなか、大正4年、大正15年、昭和4年、昭和16年と度重なる提訴運動を繰り広げ、第1次水紛争から第4次水紛争へと展開しました。何としても大和平野へ水を引きたいという悲願、余剰水でも洪水時の水でいいから分けてもらえないかと再三にわたる交渉を重ねますが、いずれも根強い反対、金融恐慌による財政事情等により計画は頓挫しました。しかし、奈良県側も諦めません。反対を唱える紀伊平野の農民の実情を知ることが必要と考え、紀伊の水需給を調査します。その結果、大和平野と同じように、慢性的な水不足で悩んでいることが判明。計画が持ち上がる毎に、ムシロ旗を立てて反対してきた農民の真意が判りました。紀伊平野の農民も大和平野と同じ苦しみを味わってきたのです。
 
  このことから、「吉野川分水」は、大和だけではなく、紀伊平野の用水不足をも解決する総合的な利用計画でなければ実現は不可能であるという認識に達したのです。




吉野川・紀ノ川分水-新聞













和歌山県側、吉野川分水地を実地視察
(昭和4年4月18日付大阪毎日新聞)


 

農は国家の礎なり

  昭和22年、復興国土計画要綱に、全国12水系における水資源の総合開発が盛り込まれます。この12水系のなかに十津川および紀の川が含まれていました。水量の豊かな十津川および紀の川を、総合的な利用計画に基づいて開発する。この計画の目的は、アメリカのテネシー川流域開発(T.V.A)における輝かしい近代土木技術の成果を国内に導入することにありました。
  当初この事業も和歌山県側の反対にあいます。しかし、県境を越えた総合利水の立場から計画が進められ、両県の話し合いが進展、ついに「十津川分水計画共同委員会」の発足をみたのです。
  この「十津川・紀の川総合開発計画」は、やがて、大和・紀伊両平野の農業用水不足の解消に加え、水力発電、さらには上水道用水、工業用水などを確保するという高度利用が図られ、国家の一大プロジェクトとして位置づけされることになります。

吉野川・紀ノ川分水-水稲












  

豊かな紀ノ川を豊かに使う

  十津川・紀の川総合開発計画は、水源施設として、紀の川水系に「大迫ダム」「津風呂ダム」「山田ダム」を築造。さらに、熊野灘に流れている十津川水系に「猿谷ダム」を建設し、このダムの水をトンネルで山を越えて紀の川に流しこむ(流域変更)。あわせて、紀伊平野の取水施設を近代的な堰に改修統合(井堰の統合)することで水資源の有効化を図るというものです。
  一方、大和側の用水は、吉野川の水を下渕頭首工で分水し、トンネルで大和平野に運ぶという稀有壮大な計画でした。

  小説「紀ノ川」(昭和39年)では、主人公が、洪水対策に奔走する夫に「豊かな紀ノ川を豊かにつかわんで、水が怒るんと違いますかのし」と語る場面があります。小説家ならではの奇抜な表現ですが、確かに水量の多い紀ノ川を「豊かに使えば」洪水も防げるはずです。
  「十津川・紀の川総合開発計画」は、その後の日本における水資源総合開発の手本ともなった秀逸な計画でした。

吉野川・紀ノ川分水-小説「紀ノ川」












小説 「紀ノ川」
(有吉佐和子著)

 

そしてプルニエ協定へ

  3カ年の調査期間を経て、いよいよ事業の開始が迫ってきます。この間数回に渡って協議会が開かれ、事業の施工順位などが取り決められました。そして、昭和25年6月。ついに正式調印されることになったのです。
  この会議は京都の元京都祇園演舞場(プルニエ)で開かれたことから、ここでの協定は「プルニエ協定」と呼ばれています。
  300年の悲願達成。まさに歴史を動かした一瞬でした。

吉野川・紀ノ川分水-プルニエ協定





 

偉大な歴史的遺産を次世代に

 私たちは、紀の川(吉野川)の水資源と先人が築いたこの壮大な水利資産を、次世代に継承する義務を背負っているのではないでしょうか。

 大和、紀伊平野がいつまでも豊かであるために。

 そして、来るべき田園社会、国家的課題である循環型社会の形成のためにも。 

 

-事業年表- 

昭和22年 1947年  9月 十津川総合利水計画調査準備会発足
昭和25年 1950年  6月

十津川・紀の川総合開発の両県の「事業実施の協定書」

締結・・・通称「プルニエ協定」

昭和27年 1952年  4月 十津川紀の川土地改良事業の認定
昭和27年 1952年 猿谷ダム着手
昭和29年 1954年  9月 津風呂ダム着手
昭和32年 1957年  6月 猿谷ダム完成
昭和37年 1962年  5月 津風呂ダム完成
昭和44年 1969年  6月 大迫ダム着手
昭和46年 1971年11月 下渕頭首工着手
昭和49年 1974年  6月 大迫ダム・下渕頭首工・西吉野頭首工完成
昭和53年 1978年  4月 大迫ダム・津風呂ダム・下渕頭首工の暫定直轄管理を開始
昭和59年 1984年  5月 国営十津川紀の川土地改良事業完了
平成  3年 1991年  4月 直轄調査着手
平成  8年 1996年  4月 全体実施設計着手
平成12年 2000年  3月 第二十津川紀の川農業水利事業建設所開所
平成12年 2000年  9月 第二十津川紀の川土地改良事業計画確定
平成14年 2002年  9月 大和紀伊平野土地改良事業計画確定
平成15年 2003年  4月 大和紀伊平野農業水利事務所開所

紀伊平野農業水利事業建設所開所

 
 現在管内では、施設の老朽化、さらなる水需要に対応するための事業を行なっています。

 現在の事業の詳しい内容は、各事業所ページをご覧ください。

 

お問合せ先

近畿農政局 南近畿土地改良調査管理事務所

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