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地域の歴史「氾濫と苦闘」氾濫と洪水を繰り返す皆瀬川と成瀬川。
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藩政時代に入ると本格的な新田開発が行われるようになりました。1602年(慶長7年)、移封(いほう)により秋田入りした佐竹義宣は領内の総検地を実施するとともに新田開発を行いました。さらに河川の氾濫、洪水被害防止対策を目的に皆瀬川と成瀬川の合流工事にも着手します。このような藩直轄による水利事業はあまり例を見ないことでした。豪雨で川が氾濫すると水路や水田にも被害がおよぶ不安要素の多い稲づくりであったため収穫安定のために佐竹公が苦慮していたことがこの出来事で伝わってきます。 平鹿堰(731年頃)をはじめ、亀田堰(1608年頃)、岩崎堰(1612年)、十三合堰(1713年頃)下堰(1789年)など次々と堰の開削が進められました。しかし、かんがい期には河川の水量が少なく、度々干ばつに見舞われました。また洪水が一度起これば被災した井堰、水田などの復旧には莫大な労力が必要となりました。 |
苦労の歴史を越えて全国有数の穀倉地帯に躍進。
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この地域では明治時代、米の反収は150kgと全国でも最下位クラスでした。大正期には県営事業で溜池の築造や水路の改修などが行われましたが、抜本的な解決には至りませんでした。そこで1939年(昭和14年)、雄物川地区としての調査を開始。途中、第二次世界大戦での中断を経て1946年(昭和21年)「国営雄物川筋農業水利事業」が開始されます。用水の安定的な確保と相まって多収品種の育成、保護苗代の開発などで収量は全国平均以上となります。昭和40年代にはヨネシロなどの早生耐冷・強稈(きょうかん)品種の育成に成功し安定多収時代を迎えることができました。 昭和50年代には国営事業・関連県営かんがい排水事業が完成し、皆瀬・成瀬・旭川地区合計14,000haの農地が干ばつや洪水の被害から解放されました。昭和60年代には「あきたこまち」が開発され、量・質ともに国内有数の穀倉地帯となりました。最近では稲作に加えて野菜や果物の生産など複合化が進められ、より収益性の高い農業が構築されています。 |
より安定した農業経営に向けて。
現在、平鹿平野のかんがい用水は、皆瀬ダム(特定多目的ダム)および皆瀬川、成瀬川並びに渓流水等に依存していますが、夏季は水量が乏しく、さらに湧水等の減少により、慢性的な用水不足が生じており、厳しい水管理を行って対処している状況です。また、かんがい排水施設はこれまで湛水被害の軽減に寄与してきましたが、降雨形態の変化及び土地利用の変化に伴い排水能力以上の排水が施設に流入し、たびたび湛水被害が発生している状況です。さらに、頭首工、用水路、排水施設など平鹿平野の主要な施設は、「国営雄物川筋農業水利事業(昭和21年度~昭和55年度)及び県営かんがい排水事業(昭和40年度~昭和61年度)」で造成されましたが、築造後相当の年数経過による老朽化や寒冷な気象による劣化が著しいことから、維持管理に多大な労力と経費を要しています。
このため、用水対策として平鹿平野農業水利事業、排水対策として横手西部農業水利事業に分けて前歴事業で整備した農業水利施設の再整備を実施しています。
平鹿平野農業水利事業では、不足する農業用水を国土交通省の特定多目的ダムとして建設中の成瀬ダムに求めるとともに、皆瀬・成瀬の両頭首工及び幹線用水路の改修を平成25年度までに行いました。
横手西部農業水利事業では、排水の増加に対応し、農業施設の排水計画を見直すとともに老朽化した幹線排水路の改修を進めています。 |
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改修前の皆瀬頭首工(遠景)
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改修前後の排水路 |
お問合せ先
平鹿平野農業水利事業所〒013-0051 秋田県横手市大屋新町字大平99-39
電話:0182-35-7781