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東海農政局

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明治用水の歴史

荒寥たる草野

明治用水開発以前の安城市付近は広大な大地が広がる、「安城が原」「五ヶ野が原」と呼ばれるやせ地でした。わずかに流れる小河川沿いに小規模な水田が開発されていましたが、水に恵まれない地での農業は苦しいものでした。そのため、早くからため池が開発されましたが、台地上の耕地の半分以上がこれらのため池に依存していました。水が足りず、農民同士で争いが起こることもしばしばでした。

都築弥厚らの活躍

この草野に用水開削が計画されたのは江戸時代末期のことでした。和泉村(現在の安城市和泉町)の豪農、都築弥厚(つづきやこう)は、矢作川上流の越戸村(現在の豊田市)から水を引き、30キロメートルにも及ぶ水路による用水の開削を計画しました。高棚村(現在の安城市高棚町)の数学者、石川喜平の協力を得て測量を始めましたが、水害や入会地の減少を心配する農民たちに妨害され、作業がなかなか進みませんでした。やがて、5年もの歳月をかけ測量図が完成し、幕府から一部の開発許可が下りたものの、長年の激務がたたったのか、弥厚は病没してしました。

悲願の開削工事

弥厚の死後、明治時代に石井新田(現在の安城市石井町)の岡本兵松によって弥厚の計画は蘇りましたが、明治維新の影響もあり、出願された用水計画は一向に日の目を見ませんでした。明治5年に愛知県が成立し、同時期に矢作川右岸低地の排水と台地のかんがい計画を出願していた伊豫田与八郎(いよだよはちろう)の計画と一本化することでようやく許可を得ることができました。そして明治13年、ついに「明治用水」が完成しました。

日本デンマーク

明治用水完成後の農業の発展は目ざましいもので、約2,000ヘクタールだった水田面積が明治40年には8,000ヘクタールを超す一大穀倉地帯へと画期的な転身を遂げました。台地という立地条件のため、秋になり水門が閉じられると水田は干し上がり畑になります。これを利用して冬期には麦や野菜、菜種、れんげなどが栽培され、耕地の高度利用が図られました。安城農林学校長だった山崎延吉の助けもあり、生産物は米作、養鶏、養蚕や果樹と多方面に渡り、多角形農業と呼ばれ普及していきました。こうしてこの地は「日本デンマーク」と呼ばれる、優良農業地帯になりました。

世界かんがい施設遺産の登録

平成28年11月8日、タイ王国チェンマイで開催された国際かんがい排水委員会(ICID)の第67回国際執行理事会において、明治用水が、「人造石」と呼ばれる人工の石を用いた堰堤の建設したことや、官民連携、及び農家の自発的な水路維持管理の卓越した例であることが認められ、世界かんがい施設遺産に登録されました。

明治用水のあゆみ

お問合せ先

矢作川総合第二期農地防災事業所調査設計課

電話:0566-71-4611