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関東農政局

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 ❹   農と歴史

1. 櫛挽ヶ原の農と歴史

   中世

   櫛挽ヶ原は、荒川により形成された扇状地の北側に位置する台地上に位置し、西暦1600年代までは、付近12カ村共同の「入会地」(いりあいち )として広大な秣場(まぐさば)でしたが雨期から秋にかけて野水が停滞する地域でした。

   秣場は、田の肥料や飼料にするための重要な草刈り場であり、大事に管理されてきましたが、年の経過と生活の変化により秣場を開発し耕地を増やそうとする開発派と、開発を阻止しようとする保守派との衝突が連続し何回となく繰り返されたのが、櫛挽ヶ原でした。

   近世

   寛文期(1661~1672)以降、幕府が新田開発に示す態度は、積極的関心を示しましたが、それは本田畑の障害にならぬ範囲内でやるという本田畑(古田畑)中心主義をとっていました。  

   正徳6年(1716)、徳川吉宗が八代将軍についてからは幕府の財政難克服のため、新田開発を政策の柱として、大幅な転換を図り、享保11年(1726)には、幕府の力によって櫛挽ヶ原の入会秣場も解体され、新田開発への道を歩むことになりましたが、主な河川や排水路が無いことから、毎年、雨季に停滞する野水による湛水被害が多発し、又往時の秣場的林地に戻ったものと考えられます。

戦後の開発

   戦後の食料増産及び引き揚げ者対策のため、昭和20年代頃、県の櫛挽ヶ原開拓建設事業により農地開発と排水及びかんがい施設の整備が実施され、本格的な農業が始まりました。

    開墾建設事業の第一歩が放水路の開さくでした。

   昭和22年、念願の櫛挽ヶ原地区外幹線排水路が埼玉県営事業として着工され、基盤整備事業は急速に実施され、開墾の拡大や道水路が整備されました。

   ここに今日の整然とした区画割り、平行に走る防風林と防風林を背にした住宅、畜舎等、散居型新農村出現の基礎が敷かれたものです。

   また、水不足に悩む農業地域への用水補給の必要性等から、従来、電源開発として検討されてきた貯水池計画が、発電、農業、治水、観光を目的とした総合開発計画として立案され、昭和30年代、国営荒川中部土地改良事業等により、安定的な農業が可能となり、埼玉県内でも有数な農業地帯として大きく発展しました。

   なお、日本資本主義の父と言われる深谷市の偉人渋沢栄一は、世界文化遺産に登録されている富岡製糸場の創設に関与し、各地で製紙工場をつくりましたが、櫛挽地域における養蚕業は、桑園地として昭和38年頃に最盛期を迎え、昭和45年には、県下最大級の人工飼料による稚蚕共同飼育場が建設され、優良稚蚕の確保と繭の増産に寄与されました。


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