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関東農政局

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2.坂東武士の開拓【農と歴史】

九十九里平野南部の湖沼群

   九十九里(くじゅうくり)平野は、古くは平野全体が「玉の浦」と呼ばれた海でしたが、北の屏風ヶ浦(びょうぶがうら)や南の大東岬(だいとうみさき)周辺の砂が沿岸潮流によって運ばれ、次第に陸地化されていきました。

   標高は最高点でも10m以下という平坦な地ですが、海岸に平行して8列の古い砂丘微高地)が南北に並んでおり、台地から海までの断面はわずかながら波を打つように凸凹状になっています。この砂丘の上に街や村落ができ、低地には水田が列状に並んでいます。

   この列状の集落は、麓付近から順番に海に向かって開拓されていったのではなく、『両総土地改良史』によれば、

  • 第1列

   横芝から茂原(もばら)にいたる鉄道沿いの街は台地のふもとに位置し、古代に成立したもの。図のDの湖沼群や谷地田と呼ばれる谷あいの水田を開拓してできた村落です。

  • 第2列

   荒屋、新久、幸谷などは中世末か江戸初めにできたもの。図ではCの大きな湖沼を干拓してできた村落群でしょう。

  • 第3列

   戦国から江戸前期にできた新田村で、第2列の村落の分村が多い。これも第2列の干拓地が広がったもの。

  • 第4列

   家徳、広瀬など江戸中期にできた新田村が多い。幕府や町人請負によって、第2列の湖沼を干拓して成立した村落。

  • 第5列

   第1列の集落に次ぐ古さで、中世の荘園開拓にさかのぼるようです。図ではAとBの湖沼群の間にある微高地で、Bの沼地の水を引くことによって成立した村落でしょう。

  • 第6列

   ここから半農半漁の臨界村となる。第5列と同じ中世からの村落。

  • 第7列

   江戸中期の新田村。図のAにある海岸沿いの農地は近世になって開拓されたようです。

  • 第8列

   納屋、浜などの付く集落が多く、江戸時代の地引網漁業で増加した村落。

 

   以上のことから、この九十九里平野の農地はほとんどが中世以降に造られた比較的新しいものであることが分かります。9万haという広大な平野ながら、中世まで手が付けられなかったのは、いかに開発が難しかったかを物語っています。おそらく当時は、水不足よりも、むしろ陸地とも沼地とも区別のつかない一面の湿地帯であったことが想像できます。

   しかし、この茫々たる沼地の開拓こそが、坂東武士の勢力拡大の大きなエネルギー源になっていったのでしょう。

   鎌倉時代、現在の一宮町、睦沢町、長生村、いすみ市(旧岬町)のほぼ全域にわたる「玉前(たまさき)荘」という荘園があり、玉前神社(たまさきじんじゃ)の神領をもとに成立した荘園であったことが記録に残っています。玉前神社は上総(かずさ)国の一宮だったため「一宮荘」という名前で広まり、一宮町の名称由来となりました。

地図

 

水郷の開発

   一方、「水郷」で有名な佐原(さわら)一帯はどうだったのでしょうか。以前は、十六島とか新島と呼ばれていたようで、中世を通してこのあたりは古代の「香取(かとり)の海」そのままに、一大沼沢地でした。この地区に開拓の手が伸びるのは16世紀末、つまり江戸幕府が成立する直前の頃だと言われています。「常陸国江戸城主・土岐頼綱の旧臣石田駿河なるものが、天正19年(1591)に、代官吉田佐太郎の許可を得て新田開発に着手した。これが上之嶋(現稲敷市)の開起であるという。いわゆる代官見立新田であって、土豪の主導のもとに沼沢地に堆積した洲の上に新田村が出現したのである(高島緑雄『関東中世水田の研究』より)」。その後、順次、まわりの洲も開田されていきました。

   ところが、江戸幕府が成立すると、この地域はとてつもない変化に見舞われることになるのです(3.水をめぐる混乱【農と歴史】へ)。

 

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