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関東農政局

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1. 総の国の誕生 【「農」と歴史】

貝塚が密集する千葉県

   日本は世界的にみても貝塚の密集地帯として知られていますが、とりわけ関東地方が多く全国の半分程度が関東地方から見つかっています。中でも、利根川下流域から霧ヶ浦にかけての地域と東京湾周辺に最も集中しています。縄文時代には日本で最も人口密度の高い地域だったとも言われています。
   約6千年前、九十九里平野はほとんどが海の底でした(縄文海進)。貝塚や古墳は下総台地のふもとあたり、比較的標高の高いところに分布しています。
 この地は南から流れてきた黒潮が日本から離れていく場所であり、一方、栗山川は「サケの回帰する南限」とも言われ、親潮(寒流)の影響も受ける豊かな海でした。古墳からは多数の丸木舟が出土していることからも、縄文時代には多くの人間が活動していた地域だったことが想像できます。


 

総の国

   数千年を経て土地が隆起し海は後退していきます。弥生時代から古墳時代にかけてだいたい今の海岸線あたりまで陸地化されました。陸地とはいっても、ほとんどが湖沼ラグーン(潟湖)が広がる湿地帯であり、アシやマコモの茂る荒野でした。南から稲作文化が伝わると、人々はその湿地帯に稲を植えて半農半漁のような暮しをしていたのでしょう。
   四国の阿波の忌部氏は黒潮に乗って房総半島に進出し、この地の良質な麻を栽培したことから「総(ふさ=麻)の国」と呼ばれるようになり、後に2つに分けられ、上総(かみつふさが短縮)、下総(しもふさ)の国名となりました。安房国一之宮である安房神社(千葉県館山市)にも四国の阿波からの由来が記されています。


東国制覇の拠点

   やがて大和政権の勢力が広がると、上総・下総は東海道として位置づけられます。当初の東海道は相模国の三浦半島から海路で房総半島に渡るルートとなっており、終着地は常陸の国でした。房総には、大和政権の地方支配者である11の国造(くにのみやっこ)が置かれました。
九十九里平野はむ武しゃ射国造であり、現在の芝山町や横芝町の古墳群(殿塚・姫塚)も武射国造に関係する豪族と考えられています。
   この地には東国制覇に向かったヤマトタケル、蝦夷(えぞ)征伐の安部比羅夫(あべひらふ)(8世紀後半)、同じく蝦夷へ向かった征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(9世紀前半)なども多くの足跡を残しており、東国制覇の拠点ともなっていました。東国人の勇猛さは全国に聞こえており、蝦夷征伐の兵力としても重宝されたのでしょう。


荘園の時代へ

   平安時代には朝廷や京都・奈良の寺社領となった土地が多く、房総における最古の荘園として、9世紀末に奈良の興福寺に寄付された藻原荘、田代荘、天羽荘などの名前が古書にあらわれます。現在の茂原市の地名は,この藻原荘に由来します。奈良時代、上総介に任じられた藤原黒麻呂が牧野として整備し、興福寺に寄進したとのこと。平安時代の中期から後半にかけて、全国に荘園が広がっていきます。特に東国は、西国と違って平野も多く、膨大な未開発の地が残されていました。在地領主による開発が盛んになり、都から遠く離れていたことが、彼らの勢力の拡大を許したのでしょう。 939年、平将門の乱が起きます。将門は常陸の国府を焼き討ちにし、下野、上野の国府も攻略して下総に王城を営み、新皇を名乗りました。つまり、関東の独立を宣言したことになります。将門軍は征夷大将軍の藤原忠文に征伐されますが、この乱は、関東の荘園領主たちの勢力が都に抵抗できるほど成長していたことを示しています。将門の後も、関東各地の荘園領主たちは次第に武士団を形成して結束を固めていき、鎌倉幕府樹立の土台を築いていくことになります。


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