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関東農政局

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3.水をめぐる混乱【「農」と歴史】

幕府直轄領へ

   1590年、徳川家康は豊臣秀吉より関東八ヶ国を領することになります。当時の関東の石高はおよそ240万石。家康に対する秀吉のこの莫大な恩賞は、北条(ほうじょう)や千葉の残党対策であったとも言われています。当時の関東平野はまだ広大な荒れ地を残しており、その開発に動員することで彼らのエネルギーの拡散を狙ったという説です。

   とりわけ房総三国(上総・下総・安房)の石高は約100万石、関東平野の約4割を占めていました。房総の千葉氏はいぜん地方的な権勢を持っており、家臣団を帰農させると同時に、その活力を開発に向けさせるという狙いがあったのかもしれません。

   九十九里(くじゅうくり)平野は、徳川四天王の本多氏に大多喜藩(おおたきはん)を、また譜代の石川氏に成東(なるとう:現山武市)を与えただけで、あとはほとんど旗本領や天領としてしまいます。その本多氏も石川氏も間もなく転封となり、この平野はほとんど旗本領(直轄領含む)となりました。

   家康は、東金(とうがね)に御殿を建て、鷹狩りのため東金と船橋を結ぶ約50kmの直線道路(御成街道)を造らせています。さらに、関東一とも言われるため池・雄蛇ヶ池(おじゃがいけ)を築造させるなど、この平野に大きな関心を寄せています。

   その理由は不明ですが、のちに大きく開発される利根川(とねがわ)中下流部と同じような期待を持っていたのかもしれません。この平野は、家康の眼にはいずれ稲穂が黄金色にたなびく広大な大平原として映っていたのでしょうか(それが真に実現するのは、両総用水事業の後になるわけですが・・・)。

 

利根川の瀬替え

   一方、ようやく江戸時代になって開発が盛んになり始めた佐原(さわら)周辺ではとてつもない事変が起こります。

   当時の利根川は図のように江戸に流れ込んでおり、いわゆる香取(かとり)の海は、今の鬼怒川(きぬがわ)や霞ヶ浦(かすみがうら)周辺の河川が集まるところでした。

   ところが、江戸初期に始まる利根川の瀬替えによって、利根川水系や渡良瀬川水系の水がこの香取の海に押し寄せ、従来の2倍の量の水が流れ込むことになったのです。

   瀬替えは、江戸の水害対策、関東平野の開拓、銚子(ちょうし)と江戸を結ぶ水運、東北の雄藩への防御などいくつかの重要な目的を持っていました。佐原は、銚子から江戸への水運の中継点であり、千石船(せんごくぶね)が行き交う港として栄えることになります。

   さらに、八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の代になって、河川の工法がそれまでの関東流から紀州流に代わります。利根川は強固な連続堤防で固定され、より直線化されることになりました。この影響で、利根川上流の大雨によって佐原周辺の水位がピークになるのに、以前は5日かかったものが、紀州流時代の後には2日となってしまったのです(現在は明治以降の工事によって1日に短縮)。昔は、大雨に見舞われても利根川の水位が上昇する前に、佐原周辺の川は利根川へ排水していました。ところが、紀州流による利根川の変化によって、大雨とほぼ同時に利根川の水位が増すようになり、利根川の水位が支流より高くなるため佐原周辺の川に逆流します。大雨に加え、本流からの逆流によって川の水はあふれ、大被害をもたらすという事態が何度も繰り返されることになっていったのです。


1000年前の関東平野
『利根川治水論考』より 

  

湖沼の干拓

   九十九里平野には何列かの湖沼群があることはすでに述べました。この平野の開拓は、いわば湖沼の干拓によって進められてきたとも言えます。中でもスケールの大きいのは、東金の東にあった塚崎沼、大関沼。もう一つが茂原(もばら)の東に広がる大湖沼群でした。塚崎・大関沼は南北およそ6、7km、東西5kmくらいの規模だったといいます(現在、家徳、広瀬にまたがる地区)。

   鎌倉時代以降、平野の中間に位置する水田集落は、これらの湖沼を狭める形で開発されてきたわけです。ところが、河川の水が十分でないこの平野では、この湖沼が下流の村にとっては水源でもあったのです。つまり、干拓が進めば進むほど、その湖沼を用水源にしている下流の村は水が足りなくなってしまうという矛盾が出てきたのです(塚崎・大関沼の下流は漁村が多く、初め紛争はなかったが、徐々に排水をめぐる紛争が激化していく)。

   また、干拓された農地も水はけが悪かったり、砂地のためザル田(水が抜けやすい水田)だったりして、非常に条件の悪い農地でした。茂原東方の大湖沼地帯も、徳川初期に開発が試みられますが、あまりにも生産力がなかったため早々と見切りをつけています。

   要するに、用水の絶対量が不足していることに加え、雨が降っても何列もの砂丘群が邪魔をして、水は南北へ蛇行したり、低地によどんだりして平野から直ちに排水されません。まだ充分に稲が伸びていない梅雨時には、稲が水の下にもぐってしまい、いわゆる湛水害を起します。

   つまり、この平野の農民は、照れば渇水、降れば湛水という極めて不安定な営農を強いられてきたのです。さらに、この地のほとんどが旗本領として分散統治されていたため、地域全体で対策を立てることもなく、徳川の中期以降、水秩序が混乱し、水争いが激化していくことになるのです。

 

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