2.中世の農
常陸国の成立
農業が伝わり、それまでの狩りや漁に頼る不安定な生活から、定住して、農地を耕す安定した生活が行われるようになったことで、次第に人口も増え、集落も大きなものとなっていきました。こうした集団をまとめるリーダーたちは、次第に大きな権力を持つようになり、時には別の集団と争いながら、より大きな集団(クニ)を形成していきました。4世紀ごろ、このような大きな集団(クニ)の中で、最も勢力を強め、西日本を中心に強大な権力を誇ったのが、大和朝廷です。
646年、大化の改新によって、天皇中心の中央集権国家への統制が始まると、現在の茨城県は、常陸(ひたち)国となり、同時に、全ての土地と人民は天皇のものとする公地公民の制度が定められました。農民には、それぞれ一定の農地(口分田)が分配され、税が徴収されるようになります。
この税の品目は、近畿、山陽をはじめとする西日本では、米が主でしたが、武蔵(むさし)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、下総(しもうさ)、常陸の関東の5ヶ国では、絹や布が多くを占めていたようです。はっきりとした記録は残っていませんが、那珂川の沿岸も、低地での水田よりも、むしろ、台地上での畑作の方に力が入れられていたのかもしれません。
戦乱の時代
しかし、天皇を中心としたこうした制度は、長くは続かず、平安時代になると、各地で寺社や貴族らが荘園と呼ばれる私有地を広げ、さらには、この荘園を武力で守る武士が発生していきます。力をつけた武士団は、後には武家政権を成立させました。
この時代、那珂川の下流部は、大掾(だいじょう)氏、江戸氏、佐竹氏など、源氏や平氏の末裔の武士たちによって支配が行われました。鎌倉時代の初めの1193年、大掾氏は那珂川下流の右岸の台地に居館を構えますが、これが、後に水戸藩の居城となる水戸城の起源といえます。室町時代の中期には江戸氏が、戦国末期には佐竹氏が、争いの結果、この地の支配者となりました。
この鎌倉時代から戦国時代までの約400年間、いわゆる中世と呼ばれる時代は、一言で言えば戦乱の時代です。鎌倉幕府の滅亡、南北朝、室町時代、応仁の乱、そして群雄割拠する戦国時代と、常陸国でも豪族、武士らが地位を確立し、あるいは陥落し、めまぐるしい変転を見せました。いわば、為政者たちの力は、戦乱の世を制することに傾けられ、大規模な土木工事を行い、農地を開発することは難しかったと思われます。那珂川沿岸が農地として十分に開発されるには、江戸幕府によって天下が定まる近世以後を待たねばなりませんでした。
常陸・北下総の荘園公領図
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