4.近代農業の発展
度重なる水害
江戸時代、水戸藩による開発が行われ、堰や水路の整備も進んだ那珂川沿岸でしたが、未だ問題もありました。
3,270km2もの広大な流域面積を持つ那珂川の下流部には、豪雨ともなると大量の水が流れ込み、特に水戸市周辺の低地での水害の被害はたいへんなものでした。水害の記録が残されているのは、江戸時代以降のことですが、1723年、1728年、1730年、1734年と、五年を置かず甚大な被害が記録されています。
明治に入ってからも、それは変わらず、明治23年、29年、35年、43年、44年と大規模な洪水が起こり、その度に那珂川の水位は7m近くまで上がり、水戸の町は浸水に見舞われました。
被害をこうむったのは、町ばかりではありません。川に築かれた堰や、川から水を引く水路も、当然のことながら、被害をまぬがれず、その度に破壊され、流出を繰り返しました。明治29年の洪水では、小場江堰(おばえぜき)の取水門が破壊され、さらに、河床が大きく変わってしまったことで取水を行うことができなくなりました。そのため、明治30年には、小野(常陸大宮市)に移築されますが、せっかく築いたこの堰も水害によって取水門が埋没し、明治44年にはさらに上流の三美(みよし:常陸大宮市)に場所を移されました。度重なる修築のための負担は相当のもので、近代的な堰や水路を築き、抜本的な改修を行うことは、この地の人々の悲願でした。
一方、沿岸の台地上では、低地での開発が進む中、依然として小河川から取水を行う小規模な農業が続けられていました。慢性的な水不足に悩まされるこれらの地域では、安定した取水の実現が望まれていました。
小場江堰の変遷
近代化の実現
那珂川に抜本的な治水整備の手が伸ばされたのは、戦後の昭和20年代以降のことです。常陸大宮市や水戸市、ひたちなか市などで、川底を掘り下げ、堤防を築く工事が次々と進められました。
そして、とうとう悲願であった小場江堰の改築が実現します。昭和42年から47年にかけて行われた県営かんがい排水事業によって、小場江堰は、現在の近代的な可動堰に造りかえられ、小場江頭首工として生まれ変わりました。現在では、幹線水路30km、受益面積1,100haの大用水として、地域の農業を支えています。
また、同じく昭和の時代には、水戸市の渡里(わたり)台地揚水機場や那珂市の下江戸(しもえど)揚水機場が造られ、それまで十分に水を引くことができなかった台地上に、水を送ることが可能となり、農地の拡大が実現しました。
江戸時代から開発が進められた那珂川沿岸の農地は、近代的な技術を取り入れることで、さらなる発展を果たしたと言えます。
小場江頭首工
那珂川沿岸地域の概要
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1. 農耕の始まり 2. 中世の農 3. 水戸藩の開発 4. 近代農業の発展
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