さらに詳しく 両総用水の由来碑
東総九十九里浜(くじゅうくりはま)沿岸の沃野は、気象に恵まれ五穀豊穣の楽土と称えられながらも水源に縁なく天水に依存するのみをもって、旱天(かんてん)一度来るや良田は荒野と化し、農民は餓(うえ)の巷(ちまた)に曝(さら)されしこと古来稀(まれ)なりとせず。
ことに昭和8、9両年の旱害(かんがい)に惨苦(さんく)をなめ、その創痍(そうい)いまだ全く癒(い)えざるに重ねて15年の旱魃は嘉穀(かこく)一粒の稔(みのり)を容さず、まことに酸鼻(さんび)の状を呈せり。ここにおいて我々同志は農民の苦悩を救い食糧を確保するには利根本流を水源とする灌漑(かんがい)事業を敢行(かんこう)するの一途あるのみと絶叫し、郷党(きょうとう)またこれに呼応し奮然蹶起(ふんぜんけっき)す。
一方、利根沿岸北総佐原近郷は年々の水禍(すいか)に金波漲(みなぎ)る美田も一夕にして濁流(だくりゅう)に呑まれ、人畜は害され脅威を及ぼすこと婁々(るる)たり。この惨禍(さんか)と闘い河川改修に土地改良に多年身をもって当りし先覚者坂本斉一氏は東総水利施設推進の十枝雄三(とえだゆうぞう)と相謀(あいはか)り、東北両総合体し灌排(かんはい)総合の土地改良事業として両地帯農民の宿願(しゅくがん)を一挙に貫かんとし、4郡下51ヶ町村村民の結束を固めその実現に邁進(まいしん)す。
さらに我等同志は、累年(るいねん)の旱水害(かんすいがい)を重視せる県当局ならびに県会の支援の下に、政府に実情を訴え、国費をもって事業を達成されんことを要望す。
遂に東亜事変による幾多の難関ありたるにかかわらず、第三次近衛(このえ)内閣の認容するところとなり、17年2月国会の協賛を得たり。政府は18年、本地区の農地開発計画を決定し、農地開発営団に事業代行を命じ、営団は鋭意ことに当たりしも暗澹(あんたん)たる戦雲に阻まれ事業は停頓(ていたん)す。
終戦後21年6月には天皇行幸(ぎょうこう)せられ、佐原現地において事業につき御下問(かもん)を賜り、同年9月公共事業に認証され、所長として瀬戸忠武氏を迎え、本事業蘇生の明るさを覚ゆ。
ついで22年9月、農林省直轄の下に国営事業として再出発し、25年度には見返資金5億円投入さるるに及び、北部用水幹線工事は瀬戸所長の熱意と相俟(あいま)って一段と振張(しんちょう)せり。
なかんずく粉名口の排水機は、25年の洪水に一昼夜にして1,800余町歩の水禍(すいか)を排除し、その威力は絶賛の的となり、また岩ヶ崎第一揚水機場の宏壮(こうそう)なる容姿と蒼龍(そうりゅう)のごとき大鉄管は、山嶺(さんりょう)の緑と相映じ水郷に偉観(いかん)を添え、揚機(ようき)一度発動するや両総2万余町歩の旱田(かんでん)をわずか三昼夜にして水光に飽かしむる機力を具備(ぐび)す。
今や公民一致協力の下に、我国における画期的一大農業水利事業達成の曙光(しょこう)あらわる空前の偉業を成就し、幾万に及ぶ関係農民が豊穣の秋を謳歌感謝し、食糧増産に農村文化に寄与する日の速かならんことを祈念して止まぬ。
昭和27年7月
十枝雄三撰文
能勢 剛謹書
(碑文、一部当用漢字に修正)
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