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東北農政局

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地域の歴史

庄内平野の成り立ち

庄内平野は昔「潟湖(せきこ)」という、海とつながる大きな湖であったと言われています。そこへ最上川や赤川などの河川が土砂を運び、堆積して現在の広大な庄内平野は形成されました。 712(和銅5)年、庄内の地に出羽国が成立し、国としての体制が整った後、東国・北陸などの諸国から800戸以上の「柵戸(さくこ)」と呼ばれる開拓者が移住させられます。彼らによって水田が本格的に造られていきました。当時の稲作は、沢や沼など不安定な水源を頼りにしていたため、一度日照りが続くと水はすぐに枯れ、満足に食べることもできなかったそうです。このような状況を見た最上家の家臣、北館大学助利長(きただてだいがくのすけとしなが)は、1612(慶長17)年、安定した用水を確保するため、最上川の支流である立谷沢川を水源とした北楯大堰を開削しました。

北楯大堰の造成工事

利長は、1612(慶長17)年に山形藩主・最上義光の命により狩川城主として庄内の地を任されます。当時の庄内平野は広大な原野、平地であるにもかかわらず稲作ができない荒廃した土地が広がっていました。安定した用水確保のため、最上川の支流の立谷沢川を水源とし、北楯大堰を開削します。この大事業により、荒野は次々と水田に変わりました。この水利事業の後、新たに約5,000ヘクタールが開発されたといいます。また、江戸時代末期の嘉永年間に佐々木彦作が計画した「吉田堰」も、1908(明治41)年ついに完成します。 こうして作られた水利施設はその後も公共事業等により改修され、現在もなお使用されています。これまで続く歴史の中で、幾多の先人たちの努力により庄内は広大な水田地帯として発展してきました。
北楯大堰は、平成30年度に世界かんがい施設遺産に登録され、歴史的・社会的な価値が認められました。






北楯大堰について詳細はこちら!(山形県公式YouTube)

最上川下流左岸地域の土地改良のあゆみ


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