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地域の紹介地域の特徴米作農業には、安定的な用水の供給が必要で、この地域の人々は、弥生時代の昔から安濃(あのう)川に頼ってきました。しかし、流域が狭く流路の短い河川であるので、渇水流量が非常に少なくなります。 水論の原因は「旱(かん)ばつ」と「水の配分」です。特に、新田開発が進んでからは、開発の度合が各々異なるのも問題を複雑にする原因でした。いずれにしても、当事者にとって死活問題であるので、時には死者の出る騒ぎになることもありました。 注1:北神山(きたこやま)区有文書「 椋本(むくもと)村新井証文(1611)」 注2:中跡部(なかあとべ)区有文書「天保十年の水論(すいろん)(1839)」 天保10年、旧津市の南に位置する跡部(あとべ)村と中跡部(なかあとべ)村が水論を起し、跡部(あとべ)村の新吾が鍬(すき)で撲殺(ぼくさつ)される事件がありました。
地域の歴史旧津市地域市街地の西は第四紀洪積台地・丘陵が張り出しています。この台地の末端には先史時代の遺跡や古墳が多く存在します。なかでも、納所(のうそ)遺跡は伊勢湾地域の弥生遺跡を代表する規模と内容を持ったものとして知られています。 津は古代より安濃津の良港として栄え、平家物語によれば、清盛が一門を率いて安濃津から乗船し熊野詣でをしたと云われています。しかし、明応7年(1498)の大地震で河口港としての繁栄も壊滅してしまいました。中世には伊勢平氏の里として栄えましたが、南北朝・室町期を経て、長野氏が、雲林院氏(旧芸濃町)・家所氏(旧美里村)・分部氏(津市分部)などを分出して大きな勢力となった永禄11年、織田信長が長野氏を攻め、弟信良を長野家の養子としました。江戸期は、藤堂氏による津藩の城下町として栄えました。 しかし、水害・干害も多くその対策として「雲出井(くもずい)」の工事を行いました。また、中期頃から本百姓の階層化が進み、18世紀末には、貧農救済が急務となり、改新的な改革により解決しようとしたが、反発をうけ、寛政一揆(※)となって失敗しました。 明治22年には、県内唯一の市として津市となりました。 現在は、県庁の他、官公署、三重大学、三重短期大学等の諸施設が集中し、県の行政文化の中心となっています。
江戸中期から本百姓の階層分化が進み、土地売買が禁止されていたにもかかわらず、地主層による豪農経営が成長しました。18世紀末には、貧農救済が農村政策の焦眉の問題となり、この解決に郡奉行茨木理兵衛重謙は改新的な施策を打ち出しました。 旧河芸町地域北西部は丘陵地帯で、その谷間及び東の海岸線にかけての平坦地に耕地が広がり、ほぼ中央を田中川が流れています。旧町内50余の遺跡は、ほとんどがこの丘陵に集中し、特に千里ヶ丘団地として造成された住宅団地は、団地全体が古墳時代後期から鎌倉期の複合遺跡である千里ヶ丘遺跡で、住居跡や遺跡が確認されています。 中世には、神宮領、北条領等の荘園として変遷を重ねています。織田信長が伊勢を平定し、中伊勢地方の要として上野に築城しました。江戸期には分部氏の上野藩の城下町として繁栄しました。しかし、元和5年廃藩の後は、伊勢街道の上野の宿として当地方一の繁華街として栄えました。 国道23号、306号、近鉄名古屋線、JR伊勢線と交通の便が良いため、昭和40年以降、津市のベッドタウンとして、千里ヶ丘団地をはじめ住宅団地が次々と開発されました。県下有数の人口急増の町です。
旧芸濃町地域安濃川沿いには、弥生時代の興(おき)遺跡、馬尾町(まやまち)遺跡などがあります。その他、古墳も確認されています。古代 に安濃川水系の平野に展開した安濃郡条里の復元によると、その16条から23条までが当地域に含まれます。なかでも、22条および23条の忍田里は現在も大字名として残る町内最古の地名です。 また、雲林院(うじい)にある溝淵(うすゆ)大明神は、津市の八幡神社が安濃郡条里の第1条に祀られたのに対し、最終条の神として共に郡の守護神とあがめられた古社です。
中世に勢力を誇った長野一族の工藤氏が元弘の頃、雲林院(うじい)に支城を築き雲林院氏と呼ばれました。天正8年(1580)織田信雄に背いて廃城になるまで11代250年にわたり、伊勢国司北畠氏・関氏と対立抗争しました。 江戸期には、津藩となり、途中久居藩が津藩から分離され、各々の藩領となりました。近世初頭、椋本(むくもと)が参宮街道に沿った上の山に移動しました。 これにより、中世以来の楠原(くすはら)の宿に替って、椋本が関・津間の宿場として賑わいました。また、雲林院(うじい)井堰や横山池をつくったのも江戸期です。雲林院(うじい)は、水利に乏しく、水田化の困難な所でしたが、延宝3年(1675)津藩が安濃川上流に井堰をつくり溝を開いて貞享3年(1686)に水田30町歩が開発されました。雲林院(うじい)では、この工事に関わった役人や庄屋を井神社に奉祀しています。堰は県の史跡に指定されています。椋本(むくもと)も水利の乏しい土地ですが、幕末頃に駒越五郎八が横山に池を堀り、これに安濃川の上流より取水して水を貯えました。この横山池は豊久野(とよくの)をはじめ200町歩以上を灌漑しています。 近年東部に工場が進出して旧町内の労働力を吸収しています。また、各地に住宅団地ができ市民の生活を次第に都市化する中にあって、農業専従者は減少し、農業の機械化とともに兼業化が進んでいます。
旧安濃町地域安濃川の西岸には、弥生時代の遺跡が散在し、町中央には古代に安濃川中流を支配した豪族村主(すぐり)氏のものではないかと思われる明合(あけあい)古墳群やその他長谷山(はせやま)古墳群があります。さらに、古代から中世にかけては、伊勢神宮の荘園でした。 戦国期になると、長野一族の細野氏が安濃字城山に、北畠氏家臣奥山氏が今徳の地に築城しましたが、いずれも織田信長の伊勢平定の際、滅亡させられたり支配されたりしています。 旧亀山市地域市街地は、城下町として、また東海道に沿う宿場町として発達し、旧東海道沿いや城址付近には古い町並みが残っています。 河岸段丘上には、縄文前期の野村遺跡、縄文~古墳時代の地蔵僧遺跡等があり、いずれも集落遺跡です。古墳は多数発見されていますが、特に、御幣(おんべ)川安楽(あんらく)川の合流点付近には、記紀に登場する日本武尊の陵墓と伝わる前方後円墳の能褒野(のぼの)王塚とその陪塚と思われる16の円墳があります。 中世には、中御門家領、北条氏領、神宮領と荘園として変遷しましたが、しだいに荘園の実態を失い、南北朝期には関氏が南朝方として活躍し、戦国末期秀吉により奥州白河に移封となるまで、この地に勢威を振るいました。 江戸期には亀山藩の城下町として、東海道亀山宿として栄えました。明治には、四日市~草津間、亀山~津間の鉄道の駅が設置され(後の関西線、参宮線)、鉄道の分岐点として亀山は鉄道の町となりました。 昭和29年10月1日、町村合併促進法により、亀山町を中心として周辺の村々を合併し亀山市となりました。以来、名阪国道や東名阪自動車道の建設による自動車交通の躍進、また工場誘致により、農業地帯と同時に、工業団地が立地し、近代都市としての面目を一新しつつあります。 地域の農業旧津市地域志登茂(しとも)川、安濃(あのう)川、岩田川流域の扇状地性低地および伊勢湾に沿った三角州性低地に水田が拓け、この上部に位置する砂礫性台地に、黒ボク土壌を含む畑地が広がっています。 従来、市街地の周辺に近郊野菜供給地があり現在は都市化スプロールの中に組み込まれていても野菜作団地を形成しており、卸売市場への個別出荷産地として残存してます。 市内高野尾(たかのお)地区の畑地帯では植木産地を形成し、また、酪農、肉用牛、養鶏経営が散在するほか、大里、高野尾(たかのお)地区に大型養豚経営が生産団地を形作っています。
旧河芸町地域海岸の三角州性低地と田中川流域の扇状性低地に水田が広がっています。交通条件に恵まれ、兼業化は極めて進んでおり小規模水稲作経営によって大半は占められています。 過去にみかん、はくさい、キャベツ、すいか等が産地化していましたが、現在は一部の高齢労働力による生産と個別出荷が行われています。
旧芸濃町地域主として安濃川上流域の扇状地性低地に耕地が広がっています。従来の養蚕、野菜、畜産、林業と水稲複合形態から現在は、集落営農へと移行してきています。 山地沿いあるいは丘陵地に旧関町から伸びる茶園があり、また、隣接の津市高野尾地区の植木産地の一部を形成し、施設いちご、キャベツ、さといも等も小規模産地として残っています。 なお、椋本(むくもと)地区には、養豚、養鶏経営が点在しています。
旧安濃町地域農地は、安濃川の中流域に展開しています。扇状地性低地の沖積平野に集団化しています。兼業化は極めて進んでおり、現在は水稲・小麦・大豆の複合経営となっています。 一部に野菜(キャベツ、たまねぎ、施設野菜)、花き経営および養鶏、養豚経営が散在しています。
旧亀山市地域鈴鹿川およびその支線の椋川、安楽川沿岸の沖積地は、肥沃な水田地帯で水稲作が主流となっています。高燥(こうそう)な洪積台地および丘陵地は桑園が連なり養蚕が盛んでしたが現在はその影をひそめました。代って緑茶の植栽面積が増加し鈴鹿市、四日市市に続く、鈴鹿山麓に広がる「伊勢茶」大産地の一画として全国的に名声を博しています。 畜産では、酪農・肉用牛生産団地が存在する他、市内に酪農肉用牛・養豚・養鶏経営が点在しています。 地域の伝統文化等
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