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関東農政局

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1.安曇族の開発【「農」と歴史】

山の中の盆地に海神!?

  中信平の標高は500~800m。この山中の盆地を開発したのが古代日本を代表する海人族(あまぞく)・安曇(あづみ)氏であると聞けば、誰もが驚くでしょう。安曇氏の本拠地は北九州の志賀島(しかのしま)一帯。白村江(はくすきのえ)の戦いを指揮した安曇比羅夫(あずみのひらふ)など水軍の指揮官を勤め、大和朝廷では高い地位にありました。「アヅミは、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積などと表記され、その足跡は瀬戸内海を経由して阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江もおよび、琵琶湖の西側には安曇川の地名を残している」(谷川健一『日本の地名』)。

  信濃(しなの)の大社として名高い穂高神社(ほたかじんじゃ)は、この安曇氏の祖神である海神「穂高見命(ほたかみのみこと)」を祀っており、今でも同神社の祭日には何艘もの船がくりだしお互いにぶつけあう豪壮な行事を見ることができます。その昔“天智元年に水軍を率いて百済(くだら)救援に向かった祈りの様子を表したものが始まりである”とも伝えられています。

  安曇族がこの地へ来た時代は7世紀頃とされています。その理由については、大和朝廷の任を受けた蝦夷(えぞ)征伐であるとも、また、越国(こしのくに)の制圧のためとも推測されていますが、決定的なことは不明です。

  いずれにせよ、当時の大和政権の制覇とは、他の部族を制圧し稲作によって年貢を納めさせること(渡来系弥生人による稲作社会の形成)を意味していたので、安曇族がこの地に定着したことは、稲作文化の伝播という意味でも充分に意味があったことになります。

  では、それ以前に、この地に住んでいた部族はいなかったのでしょうか?


穂高神社の御船祭
写真提供:穂高神社

 

八面大王の伝説が意味するもの

  いないどころか、この地からはたくさんの遺跡や古墳が見つかっています。まず、梓川(あずさがわ)右岸には縄文時代では、唐沢(からさわ)遺跡や三夜塚遺跡(山形村)、熊久保(くまくぼ)遺跡(朝日村)、葦原(あしはら)遺跡(波田町)など。弥生時代になると、扇状地末端の湿地帯に集落が営まれたらしく、三の宮、こぶし畑、境窪遺跡(いずれも松本市)などがあります。また、古墳は穴観音古墳、殿村古墳(横穴式)などが山形村で調査され、松本市新村でも13基の横穴式古墳が発見されています。

   左岸の安曇野(あずみの)でも縄文前期から中期にかけての遺跡が、烏川(からすがわ)、黒沢川(くろさわがわ)など水の得やすい扇頂部、扇端部などから出土しており、弥生式 土器も烏川扇状地の末端部でおびただしく出土しています。古墳は、山の山麓部分、ちょうど左岸幹線-穂高幹線水路に沿うように分布しています。中でも有名なのは有明古墳群こと「魏石鬼岩屋(ぎしきのいわや)」。魏石鬼とは有明山(ありあけやま)の麓で勢力を持っていた八面大王(はちめんだいおう)という「鬼」であり、伝説では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に成敗されたことになっています。しかし、合戦沢、耳塚、立塚、矢村など伝説に関わる生々しい地名も残っており、おそらくは大和朝廷の先兵である安曇族の侵入に対して最後まで抵抗した部族 だったのでしょう。伝説上は「鬼」ですが、地元では英雄視する声もあります。いずれにせよ八面大王の戦いの頃、この盆地は大和政権の勢力下に入り、稲作が盛んになっていったと思われます。


魏石鬼岩屋

 

日本で1、2位を競うほど古い和田堰

  平安中期に編纂された『和名抄(わみょうしょう)』によれば、松本市周辺には大井郷があり、安曇野には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷という郷(律令制における末端の行政区画)が記されています。また、朝日村には洗馬牧、洗馬庄(藤原系の荘園)。波田町には大野牧、大野庄。左岸には西牧、猪鹿牧などが記されています。とは朝廷の牧場を意味します。

  松本市の大井郷は、7世紀(8世紀とも言われています)、梓川から取水する大井堰(現和田堰)の開削とともに開発され、その範囲は新村・和田・島立・島内(いずれも松本市)と考えられています。島立、新村には条里制が施行されたようです。

  日本で最古の用水は、607年、聖徳太子が築造した五ヶ井用水(ごかゆようすい:兵庫県加古川市)とされていますが、この和田堰もそれと競うほど古い歴史を持っていることになります。

  梓川右岸は、明治になって開削された波田堰、黒川堰を除くと、ほとんどこの和田堰からの分水であり、つい近年まで頭首工のあった赤松から水を取り入れていました。和田堰は、神林堰、中川堰、新村堰、榑木(くれき)堰、島堰などを分水し、最も強い水利権を持っていました(しかし、江戸期になるとこの地域の支配は松本藩、高遠藩、幕府領と入り乱れ、厄介な水争いの原因となります)。

  平安時代になると、梓川左岸でも旧三郷村周辺が住吉荘として開発されていきます。しかし、左岸地域が本格的な開発をみるのは中世期であり、この頃は、扇状地末端の湧水を集めた男女沢(おめざわ)堰や黒沢川の自然流下を利用した原始的水路を使用していたようです。

 

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