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関東農政局

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6.水争いと「農」の秩序【第3章「農」が造った国土】

  水をめぐる争い ─── いわば集落全員の生死をかけた争いです。待っても待っても雨は降らず、太陽がジリジリと照りつけます。土にヒビが入って稲も枯れ始めます。どこかの集落が耐え切れず、夜中に上流のを壊しに行きました。村中が殺気立ちます。人々は手にカマやクワを持って集まり、戦国時代さながらに川を挟んでの乱闘が始まります。

  九十九里平野の水争いは、江戸時代から昭和に至るまでに50数回記録されていますが、これは訴訟を伴うような大きな争いであり、小さな水ゲンカはいつも起こっていました。

  明治27年、栗山川の水をめぐって両岸の農民2百数10名が、手に鍬、鋤、竹やり、日本刀、仕込杖に白装束にて激突、不幸にも2人の犠牲者を出しています。また、昭和8年の干ばつでは、ある農民が水利組合長を刀で切りつけたり、農民が大勢押しかけ村長宅から米を強奪したりというような話も残っています。

  長野県の梓川も水量が少ないため、両岸(松本市や安曇野市など)では常に水争いが繰り返されてきました。特に江戸時代後半の水争いは激しく、江戸表での判決に及ぶこと数回、多数の犠牲者を出した記録を持っています。

  大正13年に起きた流血の惨事。この年の夏は大変な日照りが続き、梓川扇状地の水田約1500ヘクタールが収穫皆無に近かったといいます。手に鎌や棒を持ち両岸に対峙した農民達は、投石や殴り合いを繰り返し、ついに多数の警官の出動となりました。

  上のような記録は、多かれ少なかれどこの村でも残っています。何百年におよぶ水争いや山争いを通して、様々な約束事ができたり、証文が交わされたりして、村々の「農」をめぐる秩序ができ上がっていったのです。現在では、このような争いはみられませんが、それは過去にこうした厳しい秩序ができ上がってきたからなのです。  したがって、この秩序は、水利システムをコンピューターで操作する現在でも変わっていません。今でも大渇水になると、江戸時代の古文書の証文にしたがって水を分けたりする地域はたくさんあります。

  つまり、水田における太陽エネルギーの変換は、面積だけでなく、水の量によっても左右されることになるのです。しかし、この水は多すぎても困ります。 

  利根川下流の佐原(千葉県香取市)や潮来市(茨城県)は「水郷」としてあまりにも有名ですが、利根川の氾濫によって何度も洪水に襲われています。特に、江戸初期に始まる利根川の瀬替えによって、利根川水系や渡良瀬川水系の水がこの地域に押し寄せ、従来の2倍の量の水が流れ込むことになりました。

  さらに、江戸中期、利根川は強固な連続堤防で固定され、より直線化されることになります。この影響で、利根川上流の大雨によって佐原周辺の水位がピークになるのに、以前は5日かかったものが、2日となってしまったのです。昔は、大雨に見舞われても利根川の水位が上昇する前に、佐原周辺の川は利根川へ排水していました。ところが、利根川の改修によって、大雨とほぼ同時に利根川の水位が増すようになり、利根川の水位が支流より高くなるため佐原周辺の川に逆流します。大雨に加え、本流からの逆流によって川の水はあふれ、大被害をもたらすという事態が何度も繰り返されることになっていったのです。


  1. 日本の地形の特徴
  2. 水路を引くむずかしさ
  3. なぜ日本は水田を求めたのか
  4. アジア・モンスーン   ―地球10周分の水路網
  5. 農地の宿命
  6. 水争いと「農」の秩序
  7. 二次的自然の形成―琵琶湖40個分の湿地帯
  8. 江戸の水系社会


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