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関東農政局

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1.「くに」の成立【農と歴史】

太古の歴史

   埼玉県では、1~2万年前の先土器時代から人々が暮らしていたらしく、旧児玉町の城の内遺跡や下原北遺跡、本庄市の小島石神境遺跡からは、ナイフ形石器などの旧石器が発見されています。

   その後、5,000~6,000年前の縄文時代には、温暖化により海面が数メートル上昇し、関東平野には、図のように、さいたま市付近まで海が入り込んだといわれています(「縄文海進」という)。


縄文時代前期前半の海岸線

 
旧石器 (下北原遺跡)
(写真提供:本庄市)


縄文土器 (新宮遺跡)
(写真提供:本庄市)

 

古代の歴史

   やがて海も後退し、2,000年ぐらい前(弥生中期)になると、湿地帯や湧き水の得られる場所などで、農業が始まりました。旧児玉町には、下原北遺跡や真鏡寺後遺跡など弥生時代後期の遺跡が残っており、台地丘陵上には小規模な集落が造られました。このように関東奥地の山麓地域に弥生時代の遺跡が点在するのは、関東平野の南一帯は、縄文海進の名残もあって、湿原地帯や利根川の乱流地帯が広がり、人々が住み着くのには向かなかったためと考えられます。

   古墳時代になると、この地にも強大な権力を持った豪族が現れたようで、神流川下流の丘には、270基を超える古墳の存在が確認されています(青柳古墳群)。全長138mの「さきたま古墳公園」の二子山古墳、同じ地にある全長105m、高さ18.9mの丸墓山古墳など、大規模な古墳の築造も行われました。やがて、関東平野の豪族たちも大和政権の傘下に入ったようで、国造(くにのみやつこ)が秩父郡、児玉郡を中心に支配を行うようになりました。

   時代は進み、大化改新以後、この地域は武蔵国(むさしのくに)と呼ばれるようになっていきます。すべての土地を天皇のものとする公地公民制が始まりました。秩父郡、児玉郡には、条里遺跡も数多く見られます。また詳しい記録は残っていませんが、700年前後の時期には上真下(かみましも)、下真下(しもましも)、北堀などの条里水田のために、九郷(くごう)用水や真下大溝などのかんがい水路が開削されたようです。

   奈良時代の半ば、新たに開墾した土地の私有が認められるようになると、公地公民制は徐々に崩れていきます。各地に荘園と呼ばれる私有地が成立し、この地域でも有力な豪族が農地の開発を押し進めていきました。荘園が土地支配の土台となるに従い、これらの豪族はのちに源氏や平氏を頭目として勢力を拡大していくことになります。








弥生土器 (真鏡寺後遺跡)
(写真提供:本庄市)





児玉郡周辺の条里制分布




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