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関東農政局

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4.明治の苦闘と近代産業の影響【「農」と歴史】

明治時代の洪水と水争い

   神流川の治水利水は、根本的・総合的な対策が無いまま明治を迎えました。人々は洪水と渇水を繰り返す神流川の自然の猛威にさらされ続けます。原因は地形的な宿命だけではありません。江戸時代から盛んだった養蚕(ようさん)業のため、生糸の生産を行う蒸気釜の燃料に、多量の赤松などの伐採が行われました。乱伐が進んだ結果、森林の保水力が損なわれ、土砂災害の被害を拡大させました。

   1907年には、台風による豪雨で、神流川上流の上野村野栗地区を中心に山津波が襲い、43棟の民家が押し潰され、41人の犠牲者が出ています。3年後にも、神流川上・中流域で再び山津波が発生しています。

   1910年には、天明以来の大洪水が発生し、4昼夜に及ぶ雨が利根川流域を襲い、堤防の決壊が138箇所、水路破壊が9,372箇所という悲惨な状態となりました。神流川沿いの青柳、丹荘(たんしょう)地区でも家屋の流失があったようです。

   森林の乱伐は洪水による災害をもたらすだけではなく、水源の涵養機能までも失うこととなり、渇水による水争いも頻繁に発生しました。

 

1877年、九郷用水の19ヶ村と下流3ヶ村で争い。新たに分水協定が結ばれる。

1881年、竪岩の取水堰を巡っての争い。九郷堰45%、安保領ほか7堰55%に協定。

1881年、大御堂村の新田増加に伴う水争い。本田、新田の絵地図を作成し協定。

1884年、神流川の川筋が変化したことにより、安保領堰と牛田堰とで水争い。

1888年、渇水により九郷用水と阿保領(あぼりょう)用水との水争い。農具や棍棒を持ってお互い対峙。

 

   この後、大正、昭和に入るとこの水争いは、さらに熾烈を極め、流血をともなう紛争へと拡大していきます。

 

製糸産業と流域の農業

   横浜港の開港、明治維新を契機として、利根川流域にも近代工業が芽生えます。この地域では、官営模範工場として、群馬県富岡に富岡製糸場が設立され、近代的な製糸工場が稼働しました。もともと養蚕は、中山間地域の農業から発展した産業で、動力も小河川の水車を利用できることから、この北関東中山間地域でも盛んに行われるようになりました。1880年の群馬県の生産物をみると、米・穀類が37.9%、養蚕関係が57.7%、その他商品作物が4.4%となっています。埼玉県も養蚕業が盛んで、児玉郡には座繰製糸(ざぐりせいし)業が多く展開していました。

   1884年、日本で最初の私鉄である高崎線(通称生糸鉄道)が上野・高崎間に開通すると、横浜港が生糸の貿易を一手に行っていたため、本庄は繭の集積地として栄えます。製糸工場が続々と設立され、欧州からの需要に応じるため、蚕飼育の改良や生産機械の改良が重ねられ、この地域は、次第に一大製糸産業地帯を形成していきました。また、繭をつくる養蚕業も、急速に農村に普及していき、1930年頃には桑園面積と収繭量がピークに達します。

   大正期から昭和初期には、都市人口も急増し、この市場に向けた野菜や果実、畜産物などの換金作物の農業生産が発展しました。しかし、産業の集積と人口の増加は、水の需要を膨れ上がらせ、近世から続く水不足に拍車をかけることになります。

   こうした問題に抜本的な解決が図られるには、1980年の国営埼玉北部農業水利事業の実現をまたねばなりませんでした。


養蚕業の面影を残す高窓づくりの家屋(旧児玉町、現在の本庄市)

 

   国営埼玉北部農業水利事業については、事業に至る経緯   2.悲願の事業―国営埼玉北部農業水利事業をご覧ください。

 

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