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関東農政局

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7.沼を干す

  新田開発といえば、干拓も大きな比重を占めていました。前述した見沼溜井も見沼代用水の完成によって干拓され、約1,200haという広大な水田に生まれ変わりました。
  干拓には、海の干拓、潟湖の干拓、沼や湖の干拓などがあります。

・海の干拓・・・古くから行なわれてきた児島湾(岡山県)や有明海(佐賀県)の干拓が挙げられます。潮の干満差を利用して、干潟になったところを陸地化します。海水の塩分が残り作物にとっては悪影響となるため、かつての干拓地では、当初は塩分に強い綿花などが植えられる例が多かったようです。

・潟湖の干拓・・・潟湖とは、浅い湾の沖合に砂が堆積し(砂州など)、海と切り離されることによってできる湖のこと。このような湖には水深の浅いものが多いため、干拓の適地となります。八郎潟(秋田県)や河北潟(石川県)の干拓が知られています。

・湖沼の干拓・・・琵琶湖(滋賀県)や巨椋池(京都府)の干拓があります。琵琶湖干拓といっても、干拓されたのは大中の湖、小中の湖など内湖と呼ばれる周辺の小さな湖です。淡水湖ですから塩分がなく干拓には適しています。日本では、無数の沼地が干拓されてきました。

 
 

  関東地方では霞ヶ浦(千葉・茨城両県)の干拓が代表的な例です。霞ヶ浦周辺は、かつては「香取の海」と呼ばれた広大な湖でした。

  潮来市(茨城県)や旧佐原市(現香取市、千葉県)が陸地化されたのは江戸時代になってからと言われています。利根川の流れを堤防などで固定することによって、周辺の水浸しの土地が陸化されたわけです。
  干拓は、よく埋立てと間違えられますが、両者は全く異なるものです。埋立ては、文字どおり他所から土砂を運んできて陸地化することです。しかし、干拓は堤防で囲って陸地化したり、湖沼などでは排水路を造って水を抜いてしまい、陸地化したりすることです。

  したがって、湖沼の干拓は簡単なように思えますが、大きな排水路を造らねばならず、大変な難工事となります。九十九里平野にも、かつては椿の海(※1)、鳥喰沼(とりはみぬま:※2)など大小無数の湖沼が広がっていました。椿の海の干拓は何度も資金難などで挫折を繰り返しています。成功したのは1670年頃、3年がかりで述べ8万人の労力を要したとあります。また、印旛沼や手賀沼の干拓も江戸中期から何度も繰り返されていますが、そのたびごとに失敗し、結局、成功したのは昭和になってからです。

  干拓はただ陸地化すればいいかというとそうではなく、水田にするためには新たに水路を築くという工事も伴いました。

注1:椿の海は、江戸時代まで現在の千葉県東庄町、旭市、匝瑳市の境界付近にあった湖です。1670年に完成した干拓で2,741町歩の新田と18ヶ村の新田村が誕生し、以後「干潟八万石」と呼ばれるようになりました。

注2:鳥喰沼は現在の横芝光町にあった沼で、明治時代までは周辺の水田への用水源として利用されていました。1913年に完成した干拓により、現在は農地になっています。




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