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農林水産省

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明治用水の祖 都築弥厚

江戸時代に明治用水の開削と大新田の開発を計画

愛知県安城市和泉町
1765年(明和2年)~1833年(天保4年)

都築弥厚銅像
都築弥厚銅像
明治川神社(安城市東栄町)

明治用水は、矢作川を水源とし、愛知県のほぼ中央に位置する安城市を中心に、8市にまたがる約6,000ヘクタールの農地をかんがいする農業用水です。

この地域は、水性に乏しい酸性粘土質地帯であったため、古くは台地の間を流れる小河川沿いに小規模な水田が開かれ、集落ができていましたが、農民は常に水不足に悩まされ、水争いが絶えませんでした。この農民の苦境を救うため、矢作川の水を碧海台地に導いて、大規模な新田開発を行おうと計画したのが、和泉村の都築弥厚翁でありました。

地主で酒造を営み、代官をつとめていた弥厚翁は用水計画をたて、算学の大家であった石川喜平の協力を得て、水害を招くと誤解した農民の反対にあいながらも、5年の歳月を経て1826年(文政9年)に測量を完成し、翌10年に幕府へ出願しました。

1833年(天保4年)、この「三河国碧海郡新開計画」は幕府から一部許可されましたが、弥厚翁は同年9月69歳で亡くなり、この計画は頓挫してしまいました。

弥厚翁が没して39年後の1873年(明治6年)、岡本兵松と伊豫田与八郎は、翁の遺志を引継ぎ、反対農民の説得や工事費の調達などに苦心しながらも、 1879年(明治12年)から昼夜兼行で進められた新水路の工事は、翌年に完工し、翁の夢は「明治用水」として実現しました。

明治用水の完成により、不毛の原野は次々と開墾されて美田となり、今日の農業の基盤を築くこととなりました。「日本デンマーク」とうたわれた"安城"の農業基盤は、都築弥厚翁の夢から始まったのです。

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