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農林水産省

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御坂サイフォンを設計したパーマー

イギリス国

1838年(天保9年)~1893年(明治26年) 

生い立ち~我が国最初の大規模サイフォン~

イギリス人へンリー・スペーサー・パーマーは、日本初の近代水道である横浜市水道の設計・監督をした「近代水道の父」としてよく知られている人物である。

パーマーは、1838年4月30日にインドのバンガロールでマドラス参謀本部付大佐ジョン・フレーク・パーマーの三男として生まれた。18歳で英国王立士官学校を総合成績2番で卒業した後、工兵中尉に任官され、その後カナダで測量や道路建設、シナイ半島の探査、ニュージーランドで金星の太陽面経過観測(地球と太陽の距離の測定)に従事するなど世界各地へ赴いている。

39歳の時赴任した香港では海軍本部付技術官と香港総督ヘネシーの副官を兼務している。

明治12年に、ヘネシー総督が3ヶ月間の休暇を利用し滞在していた日本から戻ると、パーマーに日本現 状分析を命じ、明治12年10月20日、パーマーが41歳の時、初来日することとなる。

日本での業績は、横浜市水道計画作成・監督や、大阪、函館、東京、神戸の水道計画書作成、横浜港築港の計画書作成及び監督、国営王子製紙工場の製紙用浄水装置の設計及び監督、そして兵庫県淡河川疏水の御坂サイフォンの設計などがある。

へンリー・スペーサー・パーマー

へンリー・スペーサー・パーマー

淡河川・山田川疏水の概要

兵庫県印南野台地を潤す河川(おおごがわ)・田川疏水は琵琶湖水、安積水と並び、日本三大水の一つとして挙げられることがある。淡河・山田川水のうち、淡河川は明治24年5月に完成した。印南野台地は瀬戸内海気候の小雨地帯に位置する台地であり、砂やレキ混じりの土質のため地下水も弱く、水に乏しい地であったため、河川から水を引くことが明治以前から試みられていた。疏水完成の120年前の明和8年や、同じく65年前の文政9年、また明治当初など、疏水が計画されているが、いずれも起工までに至らなかった。

水がないため、住民達は綿花しか頼るものがなく、綿布の販売などで生計を立てていたが、明治に入り、海外から低価格の綿が輸入されるようになると、綿布の販路は途絶してしまう。さらに、明治9年の地租改正がいっそう住民を苦しめていく。姫路藩時代は地域事情から税が軽減されていたが、地租改正により、平均で2倍半、ある村では5倍近い増税となった。税金の減額を政府に申し入れるが、聞き入れられることはなく、村が生き残っていくためには疏水を造り、稲作を行うしか方法がなかった。琵琶湖、安積、那須などの疏水が国家事業と違い、印南野台地への疏水は住民の発願によるもので、かつ全額地元負担で成し遂げようとされたものであった。

明治11年9月、魚住完治外5名が県令へ山田川疏水事業を申請し許可が下りた。内務省より田邊技師が派遣され調査した結果、地質が悪く当初予定の工事費で収まらず、また完成しても長期の使用は難しいことが判明した。山田川にダムを築く方法もあったが、やはり工事費が増大してしまう。そのため水源を山田川から河川に変更し、川の上を逆サイフォンで横断、谷越えさせる工法が用いられることになったのサイフォン御坂サイフォンである。しかし、当時は、鉄管で上を横断し、さらに50m上の山へ灌漑水を噴き上げるという工法は例がないことから、水利関係者達は工事算の議決に躊躇した。それでも郡長の説得もあり明治20年6月、変更案が決議された

パーマーの功績

この疏水計画において最も難しいとされた御坂サイフォンの設計をした人物が、内務省土木局名誉顧問だったパーマー少将である。

通常、送水管は鋳鉄管を用いるのが一般的だが、彼は御坂サイフォンで錬鉄管を使用した。仮に鋳鉄管を使用した場合、計画事業費を上回るうえ各管の重量がほぼ2tになり、輸送や急勾配の現地での作業が困難になる。しかし錬鉄管を用いることで重量の軽減が可能となった。

鋼管の製造は英国へ発注された。必要水量を満足する管内径は32インチであったが、彼は32、34、36の3種類の管を三分の一ずつ製造させ、管を中に重ねて運搬することで輸送費の低減を図った。現地では上流より36、34、32インチ管の順で接続させていった。志染川の横断部分は近隣の石材を用いた孤橋を架けこの橋の中に管を通し川の上を通過させている。

工事は隧道など難工事もあったがついに完成し、明治24年4月11日、初の通水が行われた。記録によれば「結果甚だ良好にしてサイフォンの如き一滴の漏水なく」と記されている。水源門を開いて5日後、4月16日、ついに念願の水が20km先の練部屋分水へ到達した。

淡河川・山田川疏水位置図

淡河川・山田川疏水位置図

現在の御坂サイフォン

その後の御坂サイフォンであるが、管腐食のため明治43、44年度に部分改築、明治の改修を行わなかった部分も大正10年に、管のコンクリート被覆工事をしている。さらに、昭和28年に鉄筋コンクリート橋と日本製の鋼管へと改修されたが、創設当時の石橋を壊さず、併設して新橋を造っているため、パーマーの石橋を現在でも見ることができる。また、平成4年には国営事業にて露頭部分の管は交換、埋設部分は旧管内への新管挿入を行っている。

当初計画された山田川疏水であるが、新田開発に伴う用水不足から、計画が再興し大正4年に完成、パーマーの関わった淡河川疏水とともに淡河川・山田川疏水として、改修されつつ現在も使われている。御坂サイフォンは現在、土木遺産に指定され、淡河川・山田川土地改良区事務所にある記念館には、当時の資料、創設時のサイフォンの一部などが展示されている。

現在の御坂サイフォン

現在の御坂サイフォン

パーマーのその後

パーマーは土木技師として非常に優れた業績を数多く残している。しかし、驚くことに彼の才能はそれだけでなく、濃尾地震調査、磐梯山噴火調査などの自然科学者として、さらには新聞「ザ・タイムズ」の記者としても活躍している。彼の記事は日本における条約問題、社会情勢、政治政局、自然現象、生活状況など様々な内容である。特に不平等条約は「英国のためにならず改正すべきだ」との内容が何度も掲載されており、不平等条約改正に影響を与えたと推測される。

彼のイギリス人の友人が、彼についてこう評している。「物事を論理的に順序立てて考えてまとめられるうえ計算は第一級の速さであった。仕事もねばり強く努力して精密に吟味してから取り掛かるので計画は見事なまでに的確で誤り無く仕事を遂行できていた。明るい性格でユーモアがあり、話がとても上手であった。」

後年、彼は横浜築港工事の監督工師をしていたが、竣工を間近にして、腸チフスと急性リューマチを患い二ヶ月病床の身となった。快方に向っていたが、にわかに脳卒中を起こし、明治26年2月10日、東京麻布の自宅にて他界した。享年54。今は東京青山の外国人墓地で静かに眠っている。

 

参考文献

「兵庫県淡河川・山田川疏水百年史」兵庫県淡河川・山田川土地改良区 平成2年

「祖父パーマー」樋口次郎 平成10年

「ジャパン・ウイークリー・メール」1891年7月4日

交通アクセス

神姫バス「御坂」バス停すぐ

 

本記事は、「農村振興第699号」(全国農村振興技術連盟)に掲載された「兵庫県 北野陽一 氏」の記事を転載したものである。

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