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農林水産省

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近代の児島湾干拓計画を策定したムルデル

オランダ国

1848年(嘉永元年)~1901年(明治34年)

生い立ち

アントニー・トーマス・ルベルタス・ローウェンホルスト・ムルデルは、1848年、オランダのライデンで生まれた。父親はタバコ屋を営んでおり、2人の兄と3人の姉がいる家族の末っ子として育った。

1867年、ハーレムの高校を卒業したムルデルは、土木工学を学ぶためデルフト工科大学に入学した。1872年、大学を卒業後、河川測量を担当する監督者として働き始めた。

1877年ハーグ市に採用され、運河や下水の掘削に関する設計を担当していた。

来日のきっかけは、同じオランダ人土木技術者のエッシャーであった。彼は帰国後、日本政府に新しい技術者を斡旋するため、デルフト工科大学のヘンケルト教授に相談した。ヘンケルトは教え子のムルデルを推薦し、ムルデルはその申し出を引き受け、1879年の初頭、日本に向けて出発した。

ムルデル

ムルデル

地区概要

児島湾の干拓は、世界的にも有数な規模で、岡山平野の耕地約2万5千haのうち、8割に当たる約2万haが干拓によって生み出されている。

秀吉の備中高松城水攻めがあった天正10年(1582年)当時、瀬戸内海に浮かぶ児島(現在の児島半島)と本土との間には、20余りの島々が点在する「吉備の穴海」と呼ばれる浅い海が広がっていた。

東の吉井川、西の高梁川、中央部に旭川と岡山県の三大河川が全てこの海に流入し、上流部の中国山地において、たたら製鉄のための砂鉄採取や、製鉄に不可欠な木炭を得るための伐採が長く続けられていたことから、土砂が大量に流れ込み、その強力な沖積作用で干潟が発達していた。

干拓するには好条件であったこの地は、古代から細々と干拓が続けられていたが、戦国時代の宇喜多家、江戸初期の備中松山藩の干拓により、高梁川左岸が児島と陸続きとなり、児島湾が誕生した。また、備前岡山藩重臣の津田永忠らにより、沖新田1,900haをはじめとする大規模干拓が行われ、江戸時代だけで約6,800haの新田が生み出されている。

明治に入り、士族への授産事業として、明治政府はムルデルに干拓計画の策定を依頼したが、児島湾奥部を大規模に干拓するという、そのスケールの大きさに驚いた政府は資金難を理由に断念、その後紆余曲折を経て、大阪の豪商藤田伝三郎に委ねられ、明治32年に着工した。しかし、ここは堤防を築いてもすぐに沈んでしまうようなぶ厚い泥の海であった。藤田組は難工事の末、昭和16年までかけて、一、二、三及び五区の計約2,970haを干拓。昭和14年に着工した六区(920ha)は、その後中断、昭和24年に農林省が引継ぎ30年に完成。また、七区(1,670ha)は、昭和19年に農地開発営団により着工、22年に農林省が引き継いだ。

一方、児島湾干拓の進展に伴い、農業用水の不足が顕在化してきたため農林省は、延長1,558mの児島湾締切堤防と2つの樋門を築造することで、児島湖を淡水化し、農業用水を確保するとともに、水位を調節して、塩害や高潮から背後の干拓地を守ることにした。こうして、昭和34年には面積約1,100haの児島湖が誕生、その4年後、昭和38年の七区完成により干拓工事は完了した(四及び八区は計画されたが実施されず)。

ムルデルの計画書策定から、実に80年余りが経過していた。

潮止め工事の様子(S23.4.23)

潮止め工事の様子(昭和23年4月23日)

ムルデルの実績

明治12年3月、内務省土木局で工師として日本での仕事を始めたムルデルは、明治19~20年にかけてオランダに一時帰国した約1年を除いて、約11年日本に滞在し、その間、多くの事業に携わった。彼の仕事の多くは、内務省あるいは地方自治体に助言を与えることであった。

児島湾干拓において、明治14年当時33歳の彼は綿密な調査を行い、それを基に詳細な児島湾干拓計画図を策定した。その計画は、現在の地形に非常に近く、その調査・計画の正確性は驚くべきものである。

また、調査にあたり彼は、この地方の伐採され荒れ果てた山々を見て驚き、このままでは、土砂流出、洪水の害は治まらず、古田の湿田化も止められないとして、「児島湾開墾復命書」のなかで、干拓工事の手順や工法だけでなく、伐採の禁止と河川上流部での砂防の必要性を強く説いており、後に岡山は砂防発祥の地とも呼ばれた。

彼は児島湾以外にも利根運河改修や常願寺川の改修といった河川工事のほか、三角港や宇品港築港という港湾工事まで、多岐にわたる業績を残して、明治23年夏オランダに帰国した。

ムルデルが策定した干拓計画図

ムルデルが策定した干拓計画図

現在の干拓地

近年、児島湾締切堤防を改修補強し、老朽化した2樋門を1つに統合する事業と、干拓農地の複雑で老朽化した用排水施設を再編・整備し、児島湖の水位と一体的に集中管理できるようにする事業、さらに児島湖の底泥を浚渫し水質を改善する事業が、農林水産省により実施された。これらの事業により、台風等による高潮災害や塩害等を防ぎ、食料の生産基盤である干拓農地や背後地を守るとともに、農業用水の安定確保と水管理の合理化により地域農業経営の合理化と安定化に役立っている。

現在の児島湾干拓地

現在の児島湾干拓地

 

おわりに

帰国したムルデルは、明治24年43歳の時に結婚したが、子供は生涯いなかった。その後、彼は祖国の漁港の設計や、蒸気鉄道のルート設計などに携わっている。

明治34年3月6日、ムルデルは肺結核のためナイメーヘンの病院で亡くなった。

世界有数の面積を誇る人造湖である児島湖とそれを取り巻く広大な干拓農地。それらの規模もさることながら、現在、湖や農地の持つ多面的機能は、岡山平野の計り知れない財産となっている。

その壮大な計画を策定したムルデルは岡山の恩人とも言えよう。

 

参考文献

岡山平野鳥瞰記-永忠と蕃山(中国四国農政局山陽東部土地改良建設事業所)

産業技術遺産探訪(大木利治)

歴史資料館

児島湾開拓資料館(児島湾締切堤防管理事務所内)

交通アクセス

岡山駅バスターミナルから玉野渋川行特急線、上山坂線、小串鉾立線で約30分、「甲浦郵便局前」バス停下車徒歩5分児島湾締切堤防管理事務所内(駐車場約10台有)

 

本記事は、「農村振興第697号」(全国農村振興技術連盟)に掲載された「中国四国農政局 渡部利弘 氏」の記事を転載したものである。

担当

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お問い合わせ先

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