第6節 関連情報の収集と発信
農林水産省では、地域の食文化の保護・継承を進めるため、ホームページ等を通じて地域の食材を使った料理や地域における食文化継承に向けた取組事例等について情報発信を行っています。
(https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/attach/pdf/index-16.pdf)
平成30(2018)年が明治元(1868)年から起算して満150年に当たることを踏まえ、各府省庁においては、具体的な関連施策の実現に向けて積極的に取り組むこととしており、農林水産省では明治期以降の食生活等に関連する情報を発信していくこととしています。併せて、広報などの充実を図りつつ、地方公共団体や民間も含めて多様な取組が日本各地で推進されるよう、内閣官房では明治150年ポータルサイトの開設を行いました。
コラム:明治期における食育及び食生活の転換

食育の大切さを指摘

石塚左玄著「食物養生法」内表紙
資料:国立国会図書館所蔵
「食育」という言葉はいつ頃から使われていたのでしょうか。これについては例えば明治時代の二冊の書籍が挙げられています。明治31(1898)年に発行された石塚左玄著「食物養生法」では、「食能(よ)く人を健にし弱にし、食能く人を聖にし暴にし、食能く人を雅にし俗にするのみならず、食能く人の心を軟化して質素静肅に勤勉し、食能く人の心を硬化して華美喧噪に断行するに至る」と述べるなど、食が人に及ぼす影響が大きいことを強調しています。さらに「嗚呼何ぞ学童を有する都会魚塩地の居住民は殊に家訓を厳にして躰育智育才育は即ち食育なりと観念せざるや」(学童を養育する人々はその家訓を厳しくして、体育、智育、才育はすなわち食育にあると考えるべきであるとの大意)とし、体育、智育、才育の基本となるものとして「食育」の重要性を述べています。
もう一冊は明治36(1903)年に初版が発行された村井弦齋著「食道楽」です。「食道楽」は、当時、10万部以上を売り上げたほどの人気小説ですが、同書において、登場人物の会話の中で「智育と体育と徳育の三つは蛋白質と脂肪と澱粉のように程や加減を測って配合しなければならん。しかし先ず智育よりも体育よりも一番大切な食育の事を研究しないのは迂闊の至りだ」と述べています。また、村井は、自身が作成した料理心得の歌の中でも、「小児には徳育よりも智育よりも体育よりも食育が先き」と「食育」の大切さを指摘しています。
しかしながら、その後暫くの間「食育」という言葉が世間で広く使われることはなかったようです。
栄養の重要性を発見

高木兼寛(明治8(1875)年)
資料:東京慈恵会医科大学所蔵
東京慈恵会医科大学の創始者である高木兼寛(たかきかねひろ)は、明治13(1880)年に東京海軍病院院長に任命されると、脚気の予防と治療の研究を開始しました。当時、脚気は特に都市に住む軍隊と学生の間で頻発し、陸海軍の軍医にとって大きな課題となっていました。脚気の原因は、今ではビタミンB1の欠乏であると明らかになっていますが、当時は、細菌による伝染病説が支配的でした。高木は、軍人の生活環境等に関する調査や2隻の軍艦による航海実験の結果等から、原因は栄養欠陥であると考えました。
高木は、明治18(1885)年に海軍の主食に麦混合食を採用し、結果として海軍の脚気患者は一掃されました。一方、伝染病説を支持していた陸軍軍医の森林太郎(鴎外)は、高木の説を受け入れませんでした。その影響は日清戦争と日露戦争時に顕著に表れ、海軍では脚気による死者がほとんど発生しなかったのに対し、陸軍では多くの死者(日清戦争:約4千人、日露戦争:約2万8千人)が発生しました。
この事例から、食や栄養の重要性が分かります。高木兼寛は、脚気予防策として麦飯を推奨したこと、その功績等から男爵を授爵したことから、「麦飯男爵」と呼ばれたということです。
明治期は食生活の転換期
肉類・牛乳の普及、野菜・加工品の移入・開発
開国後に流入した欧米の食文化は、我が国の食に大きな影響を与えました。特に、牛肉食は文明開化の象徴と信じられ、またたく間に牛肉屋、牛料理屋の数が増えました。明治4(1871)年の仮名垣魯文の小説「牛店雑談安愚楽鍋」では、牛肉を「高味極まるのみならず開化滋養の食料」と絶賛し、「牛鍋」が人々の人気を集めた様子が記録されています。また、明治30(1897)年の「東京新繁昌記」では、「牛肉は目下、一の大流行にして、大小数多く牛肉店、市内各所に散在して皆よく客の需要に応じ、頗る繁昌を呈せり。是れ東京人の牛肉喫食量が増加したるのを顕象にして、養生家の増加せしは喜ぶべし。されば其の供給に制限あると、価の廉ならざるを以って、馬肉豚肉を混和し或は其他の悪獣腐肉を牛肉と称して売り付くる家往々あれば、よくよく注意して信用ある家に就て飲食すべきことなり。」と、明治期なかばの肉食の流行を伝えています。
識者による肉食の啓蒙も、このような流行の一因と言われています。例えば、福沢諭吉は、明治3(1870)年の「肉食之説」において、牛肉や牛乳が身体の養生に有効だと説き、肉食を啓蒙しました。さらに、明治15(1882)年には、「肉食せざるべからず」において、欧米人の精神と体力が日本人に比して勝っていることを挙げ、その違いは食べ物の違いにあるとし、肉食の利を力説しました。
当初の一般的な牛肉の食べ方は、西洋料理風ではなく、牛肉という新しい素材を親しみのある醤油や味噌で日本風に味付けし、箸で食べる「牛鍋」でした。牛鍋屋は比較的安価で、民衆でも気安く利用することができました。
効用を知らせる牛馬会社(*1)の宣伝などもあり、牛肉と共に牛乳の飲用も次第に普及するようになり、明治7(1874)年頃には乳牛社が数十か所も開業していたということです。当初は、大きなブリキの輸送缶から量り売りされていましたが、明治21(1888)年頃に東京の牛乳店が初めてガラスびんを採用し、明治38(1905)年頃までには、ほとんどがガラスびん入りになりました。
また、明治期を通して、ハム、ソーセージ、乳製品、洋風調味料の開発も急速に進んだほか、レタス・アスパラガス・パセリ・セロリ・キャベツ・タマネギなどの野菜が外国から移入され、普及しました。
*1 明治2(1869)年に東京築地に設立された食肉、牛乳、乳製品の製造と販売を目的とする官営会社。
西洋料理の広がり

本格的な西洋料理を提供した精養軒
資料:国立国会図書館ウェブサイト
肉や油脂を使用した料理を食べさせる場として、西洋料理店も開業されます。大都市では明治1桁台、地方都市でもだいたい同十年代に西洋料理店が開業し、コーヒー、スープ、シチュー、ビーフステーキ等を提供しました。初めは外国人を相手にしていましたが、次第に日本人客も増えていきました。しかしながら、初期の西洋料理店の料理は非常に高価であったため、顧客は一部のお金持ちに限られました。
1880年代後半になると、ホテルやレストランで西洋料理を習った日本人調理人たちが、「洋食屋」という民衆を対象にする西洋料理店を開業し始め、明治30~40年代には、東京の「洋食屋」は1,500~1,600軒に達しました。そこでは、日本人の嗜好に合わせて変形された西洋料理が提供され、米飯と共にカツレツ、エビフライ、コロッケ、オムレツ等が提供されたほか、カレーライス、ハヤシライス、チキンライス等が供されました。明治39(1906)年の東京府下326軒の主な飲食店の内訳は、和様料理207軒、西洋料理36軒、牛鳥屋81軒、支那料理屋2軒となっています(*2)。
また、西洋料理は料理書によっても紹介されました。明治5(1872)年に仮名垣魯文「西洋料理指南」、敬学堂主人「西洋料理通」などの西洋料理書が刊行され、西洋料理に関する知識が徐々に広まっていきました。料理書の刊行数は明治38(1905)年以降に急激な増加をみせ、そのほとんどは家庭内を取り仕切る主婦向けの料理書として刊行されました。これらの料理書には、高価な西洋の食材ではなく、我が国の食材や調味料でアレンジした西洋料理や、西洋の食材や調味料の使用を試みた和風総菜など、多くの和洋折衷料理が登場しました。
*2 東京市役所編「東京案内」
学校給食のはじまり
明治22(1889)年に、山形県鶴岡町の私立忠愛小学校で貧困児童を対象に無料で学校給食が実施され、それが我が国の学校給食の起源とされています。忠愛小学校での給食の実施形態は、現行の学校給食とほぼ同様で、学校が調理した食事を教室において給すものでした。明治40(1907)年には、広島県大草村義務奨励会による給食、秋田県高梨尋常高等小学校での貧困児童のための給食等が実施されました。その後、明治44(1911)年には岩手県、静岡県、岡山県下の一部で給食が実施され、学校給食の取組は徐々に広がっていきました。

学校給食発祥の地における記念碑
(山形県鶴岡市大徳寺境内)
資料:独立行政法人日本スポーツ振興センター

明治22(1889)年の代表的な給食献立:
おにぎり、塩鮭、菜の漬物
資料:独立行政法人日本スポーツ振興センター


*1 牛肉や牛乳が身体の養生に有効と強調
*2 牛肉を「高味極まるのみならず開化滋養の食料」と絶賛
事例:出前授業「魚には骨がある~魚を丸ごと知って食べよう~」
一般財団法人水産物市場改善協会
豊かな海に囲まれた我が国では、地域や季節に応じて多種多様な水産物が利用されてきましたが、近年、水産物の消費量は減少傾向にあります。築地市場内に本拠を置く一般財団法人水産物市場改善協会は、水産物消費量の減少の原因として、魚に骨があることによる食べづらさに着目し、小中学校での出前授業「魚には骨がある~魚を丸ごと知って食べよう~」をはじめとした食育活動を行っています(平成29(2017)年度は東京都・千葉県の36校、約3,200人の児童・生徒に実施)。
この出前授業は、魚の骨はどんな形をしているか、どの骨に注意すれば良いかを理解することで、魚を上手においしく食べる方法を身に付けてもらうことを目的としています。マアジの骨格の図を見せながら骨や鰭などの魚の構造を学び、その上で、マアジの塩焼きの上手な食べ方と箸の上手な使い方について、写真を見せながら教えます。授業の後には、給食にマアジの塩焼きを出してもらい、児童・生徒たちはマアジの塩焼きを実際に食べ、授業で学んだことを実践します。なかなかきれいに食べられない児童・生徒もいますが、皆授業で学んだことを思い出しながら塩焼きを食べます。
授業では、魚の骨や食べ方以外にも、漢字テストやクイズ等によって児童・生徒の興味を引くような工夫を施しつつ、我が国では古くから魚介類が食べられてきたこと、魚には旬があること、漁業も盛んだが、最近はエビやサケ等の輸入も多いことなど、我が国の魚食や漁業の歴史と現状等を説明します。
授業と給食を終えた児童・生徒からは、「今まで魚の骨を取るのがめんどうだったが、授業で簡単に骨を取れることが分かった。これから家でも食べたいと思う。」、「魚の命をいただくのだから、その命を無駄にしないように、きれいに食べ、命をくれたことに感謝しなければいけないと感じた。」などの感想が寄せられました。
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