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農林水産省

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猪苗代湖疏水工事経過書(内務省)

明治150年 イメージ画像

資料の現代語訳

本書は、猪苗代湖疏水工事に関する事の要領のみを記載するといえども、この事業は本邦未曽有の土功であり、力を疏水起工に尽くす模範と言うべし。他日、疏水を計画し開墾に従事しようとする者が有るならば、この書に就いて考え判断すれば、思いの半ばは解決するだろう。

猪苗代湖水利の事業が竣功を奏したことで、今ここにその顛末を詳細に述べようと思う。この工事は、猪苗代湖の貯留水を水路トンネルを開削することにより、岩代国の安積・安達・岩瀬の諸郡を灌漑する。それにより開墾、移住の手だてを起こし、共に古田の干害を除き、現業の挙げる所を施して、それにより地方の民業・工事を誘導し盛んにするというねらいで興った。
そもそも、この水利は故大久保内務卿の建議計画で興リ、松方前勧農局長が幹旋したことである。この時、故卿は天子のお考えを会得して、陸羽地方の開墾を企てた。開墾の要は疏水に力を尽くすことにあると、明治9年(1876)12月に委員の南一郎平により、北は青森の三本木原より南は野州の那須原に至る所にある荒野を勘踏させ、その中では、福島県安積郡の対面原以下の諸原野が土壌が最も肥沃で、そして国道および阿武隈の大河に近く、その西方に当っては猪苗代の大湖が有る。これに水路を開削して対面原ほか諸原野を開墾し、灌漑の便を開く方法があるということで、まずこの地を本拠として明治10年10月に南一郎平に視察させると、猪苗代湖は諸原野より高い事304m余であり、水を流し出すのは容易だが、陸羽の山脈が南北に連なり、山の東の安積・安達・岩瀬の諸郡は常に干害に苦しみ、水利を急ぐべきであっても古来それを捨てて顧みる者はいない。昔水路を作る議論があっても、その水路は全てトンネルになり、不二見嶺直線で2,580間(約4.7km)、三森嶺4,140間(約7.5km)あり、その工事は歳月と数百万の資金を要する。それのみならず、山の前後は皆堅硬の山骨を露出し、そして険峻でただその下口一方に掘削の道が有るだけで、その上口などは湖の水面から若干尺水底に係るので風水の出入りが良くない。又穴を狭くすれば、数千間の間に何かの器械を用いるが、空気が流通できず、広く大きくすれば金を労費せねば、ほとんど人力では及ばないものであるという。しかし、耶麻郡山潟村田子沼の東嶺は開削が容易であると聞き、すぐに測量に着手するが、山脈が東西から迫り、開削する距離は僅に300間(約540m)余りに過ぎない。加えてトンネルの下口は工事を必要とせずに川を下り対面原の近くの玉川堰に達する。堰を下り、今の疏水橋から最も流末である牛庭原まで水路の長さ16,000間(約29km)余の間に131尺(約40m)余りの勾配がある。想像を言えば、安積郡の地形は南から北に下る事は阿武隈川が北流することで証明できるといえども、山麓の地形はこれに反して次第に低下しているのは天文・暦学上確実であるが、普通の流れの落差であれば逆に急過ぎる。幸いにもこの位置でこの勾配があることが、一大事業を挙行する理由である。しかし、事業の難易はもとより言うまでもない。オランダ人長工師ファン ドールン氏もこれに賛成し、県官もこれに賛成する。ここにおいて、水利がおこなわれるということで、明治11年3月、奈良原繁を推挙して、この総括を命ぜられた。故卿が世を去った後、伊藤参議内務卿が先人の残した事業を継承して更に上奏裁可せられ、明治12年10月に松方前局長と共にその実地にのぞみ、同月27日に安積郡開成山太神宮の社前にて、起業の祝詞を奉上し、翌28日に現業に着手した。以来当初の計画に少しもかみ合わない所は無く、順次進んで明治16年6月に竣工した。

(以下、省略)


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農村振興局設計課(広報G)

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