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農林水産省

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起業原因

明治150年 イメージ画像

資料の現代語訳

三河国碧海郡の地形は、高い土地・低い土地があり、高地の人々は昔から水の利が乏しく多くの溜池を造ったのだが、及ばなかった。その上、田地の近くに井戸を掘り、炎暑もいとわずこれに水を流し入れるが、干害をまぬがれない。その労力と費用は普通の耕地の幾倍にもなる。その間、沃野莫大に有りというが開けず。その地の人々の貧困する事は数えることができないほどである。
既に文政年間に同郡和泉村の都築弥厚という者が、矢作川の上流から分水して用水路を開削し、耕地へ充分水の利を与え、他方原野不毛の地を開拓することを企てて、旧幕府へ嘆願し、幕吏が実測して起工を促したが、その地の人々が不利となることを申し立て、また各領主へ伺うこととなったが、空しく数年を経る内に弥厚が死去してしまい、わざわざこの事業を継ぐ者はいなかった。そうこうしている内、嘉永年中に伊与田、岡本が志を同じくして、また旧幕府へ願い立てて、これまた実測が有るといえども、なお不平を唱え挙動におよぶので、それから十年余りは様々な苦心をし、奔走していたが、幸いにも、戊辰の御一新(明治維新)をむかえたので、その筋へ嘆願した。しかし、それから府県の状況はかわり、額田県が愛知県へ合併になった。そこであえて請願したところ、お金のことや実地に属する村民へ言い聞かせても承服しない者が有るので、工事についてなお、それを言い聞かせたところ、次第に人々も服従して、願人は各村との取り換わしに連署し、異議が無いことを得たが、勿論両人はこの費用を出す事はかなわないので、田中勘七郎はじめ3、4名が出金方をかねることを、県庁へ上申した。明治12年にはご命令が下されて、経費の手段ために、不要となった溜池の底地四百八十余町歩を無料でお下げ渡しになった。同年1月に工事に着手し、13年春にはことごとく全て出来、そして同年4月に竣工式をおこない、その年に池底を開拓して植え付をし、14年春にはそれぞれの分合反別割が出来た。


お問合せ先

農村振興局設計課(広報G)

代表:03-3502-8111(内線 5561)
ダイヤルイン:03-3595-6338
FAX番号:03-5511-8251

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